SATO's TEXT 2003-2007

2007/10/31

100)つづきは日本橋大伝馬町で

2007年10月末で通い慣れた渋谷を後にすることになりました。アジール・デザインとしてスタートしてから約10年(名称変更前のソイグラフィカから数えると12月で丸11年)。節目節目で様々なチャレンジを重ね、いつも新鮮な気持ちで各プロジェクトに取り組んで来たつもりですが、それでも長くやっていると垢はつくものです。そんな折り、2003年から続けて来たCentral East Tokyoの活動の延長で、心機一転、拠点そのものを移すことにしました。デザイン業務だけでなく、地下にはフリースペースも設け、カルチャー全般に向き合える組織を目指します。HPも徐々に新しくしていくことになるので、このコーナーもひとまずお役御免。が、また別のかたちでお会いすることになるでしょう。では!

2007/10/09

099)あらためてデザインのこと<7>

前のテキストに「そこを突破する力が今の自分にはない」と書いた。卑下とか謙遜とかの類で書いたのではない。多くのデザインが隠蔽しているモノカルチャー志向(表層的なバリエーションはむしろ過剰なほどに用意されている)を浮き彫りにして無化する力、エスタブリッシュされた者がよいデザイン提案を行うという認識自体を否定する力、それでいて大衆迎合にも陥らずオルタナティブなビジョンを示す力、そんなことを考える者はたいがい足場を別のところに置いている。結果、状況を揶揄する言説のレベルでなら存在しても、価値観を転換させるようなデザインの実践は皆無に等しい。そんな現状を確認するために書いたつもりだ。


では今はないとして、将来はどうなのか。自分であれ他の誰かであれ、そうした力は持ちうるのか。持ちうると思う。そういう段階が必ず来ると思う。それには遠く離れた場所から眺めてみる必要がある。しかも、立ち去って眺めるのではなく、居ながらにして眺める必要が。テクノロジーはそういうことのためにあると考えたい。

2007/09/11

098)あらためてデザインのこと<6>

キュレーションと各種デザインを担当することになった「ROPPONGI CROSSING 2007」まであと一ヶ月。日々いろいろと考えさせられている。が、デザインとアートの関係について言葉で語ることは、正直むなしい。デザインは今、一種の迷走状態に突入している気がする。二次使用による消費促進事例が「最先端」として取り上げられるのは今にはじまったことではないが、問題はそれに対するカウンターが個別の小さなコミュニティの中に閉じてしまっているように見えることだ。この閉塞感はしばらく続くだろう。そこを突破する力が今の自分にはないので何も偉そうなことは言えない。アートについても似たような感覚を持っている。デザイン以上に何も言う資格はないが。ただ、美学校菊畑茂久馬絵画教場出身ということもあってか(と何故か他人事のよう)、その道の先にあるもののことを考え続けてはいる。


そんな昨今、松本弦人によるbccks.jpが衝撃的に目に飛び込んで来た。blogやSNSやYouTubeの盛況を経験した後で、またはそれらを横目に見ながら、あるいはあえて関係することなく、個の「時間」の濃淡をあらためて認識し直してみること。そこに確信を持つための手がかりのようなもの。


情報をひたすらフラットに連鎖させるのではない、浸食を遮断して安全圏を形成するのでもない、もっと別のあり方が志向されている。何よりもそのことに共感を覚える。

2007/05/23

097)あらためてデザインのこと<5>

デザインというのは、言語化が追いつかない行為であるべきなのだと思う。説明がついてしまっているものには興味がなく、誰かが答を出した時点で次のハードルを探り始める、そんなふうに、まだ答のないところに答を見つけられるかどうか、がデザイナーにとっては重要なのであって、筋道立てて解法の説明をすることなどは言ってみれば付随するオプションみたいなものだろう。

だからこんな言語化の作業からは正直言って距離を置きたいし、いやもっと強く、頭の中から言語を駆逐してしまいたいとすら思う。

とここまで書きながら、矛盾した話に聞こえるかもしれないが、しかしやはり「言葉そのもの」(合理性を追求する道具としてではなく)は重要で、デザインの未来を考えても、そこはけっして避けて通れるものではないとも思っている。だからある種の危険を承知のうえで、言葉の周辺をうろうろしたりもしているのだ。

日本民藝館での「日本の幟旗(のぼりばた)」展や、「新型活版印刷所」を銘打ってスタートしたオールライト工房の動きなどを見て、「文字には未来が埋め込まれている」ということを強く思った。

「言葉そのもの」「図像そのもの」「音楽そのもの」が交差する場所、それらが生成する現場、つまり労働も遊戯もすべて含んだ生活の<場>に身を置くこと、それ以外に未来への希望など持ちようがない。

2007/04/04

096)あらためてデザインのこと<4>

昨今のデザイン業界周辺のはしゃぎっぷりに、まあそれでなにがしかの変化が訪れるのなら悪いことばかりじゃないのだろう、いままであまりにも旧態依然とした狭い世界の中で停滞してきたわけだから、などと最初は思っていたけれど、そのうちだんだん食傷気味になってきて、それにしたってあまりに実のないはしゃぎかただよなー、とか思ったりもしている昨今です。

端的に言えば、国立新美術館やらミッドタウンやらのオープンだとか、まだまだ続きそうな首都圏を中心とした大型の再開発プロジェクトだとか、そういうものに乗っかったイベントだとか雑誌の企画だとか、つまりは経済のミニバブル現象の話にもなってくる気がするんですけど、こうして書いていて思うのは、自分も決して無関係なわけじゃないなと、つまり人ごとのように批判めいたことを書いても始まらないなと。

とは言え、やはりそんな状況を全肯定できるわけもなく、違和感は違和感として確実にあるわけで、それが何かと考えるに、これらの現象は当然のことながらデザインの世界にかぎった話なんかではなく、とても構造的なものであるらしい。そんな方向に進んだって、ほとんどの人はただ従属が強化されるばかりなのに、誰にも引き返し方がわからない。そういう進み方をしている気がどうもする。

そして、一部の金持ちに都合がいい(だけとしか思えない)白痴的言説で、世の中があふれかえっている。いろんなメディアでデザイナーが成功者のようにとりあげられたり。でも正直たいしたデザインしてないと思う。ていうか誰のデザインであれたいしたことはできてない。そう考えたほうがいいんだ、まだ。本当に解決しなければならない問題にデザインはまだ向かってないし、大半はお先棒担ぎに過ぎないんだから。

いやお先棒担ぐのだってやりようでおもしろいものになるっちゃなる。そういうものにだって良し悪しはある。あたりまえだけど。ちょっとしたバランス感覚であったりとか。渦中にいながらも醒めた視点を持つとか。異なった価値軸を提示してみるとか。それはそれで、競うに値する側面もあるだろう。

そういう切磋琢磨のいいところは、個人の表現能力を超えるような力が働いて思わぬ飛躍をもたらしたりもすることで、そうした力にはあなどれないものがあるから、どんどんやればいいんですよ。遠目で文句ばっか言って何もしないより百倍マシだとは思うよ。

それは認める。それくらいのことは。しかしそれはあくまでそれだけの話であって、大騒ぎするようなこっちゃない。と思いますけどね。「デザインが世の中を動かしている」みたいな言い方もどうかと思う。まあ文脈によってはそういう話だってアリなんだろうけど、でも「まだ何もできていない」と考えるのが妥当でしょう。そこからスタートしないと。

いや「戦争が世の中を動かしている」というような意味でなら「デザインが世の中を動かしている」と言うこともできるだろう。デザインは戦争の隅々に施されている。大きな世界戦略から兵器のディテールに至るまで。インフォメーションデザインもスペースデザインもプロダクトデザインもブランドデザインもアドバタイジングデザインも「最先端」を知りたければ戦争の周辺に目を向ければいい。自明のことだけど。

こんなふうにテキストを表示している、このインターネットだって、米軍の通信システム研究に端を発しているんだし。しかしネットは「使い方によっちゃおもしろくもなる」という歴史を辿って来たわけで、そんなふうに考えれば「最先端」の概念もガラリと変わるはずだ。

2007/03/11

095)あらためてデザインのこと<3>

今の時代、つくったものが何かに似てしまうことは避けられなくなってきていると思う。少なくとも表現上のオリジナリティを主張し合うような段階ではもうない。もちろんいつの時代にも特例は存在する。けれど他の誰かが先陣切って開拓した成果に乗っただけのものを取り上げて、ちやほやしてみたり賞を与えてみたりというのは、いったい何の冗談なのか。

デザインの周辺にバブルを起こしたい向きがあるのかもしれない。不況に対する一種のカンフル剤として。それはまあいいとしよう。しかしそれはあくまで経済の話であって創造をめぐる問題とは言えない。

では何が現在の創造に転換をもたらし、何が次代を切り開いて行くのだろう。もちろんそんなことはわからない。ただ「それではない」ということだけは確実に指摘できる。

最近のデザインをめぐる状況の中で決定的に欠けているものは何かと問われたら「批評」「批評眼」「批評精神」と答えるほかはない。それくらい、まともな批評にお目にかかることが皆無だ。煎じ詰めれば「この人こんな仕事しててスゴいですよねー」というようなことしか言っていない。しかもそれが本当にスゴければまだしも、ちょっと勉強すれば誰の何の影響下にあるかすぐわかるようなものがじつに多いのだ。

今、メディアはただただわかりやすいイコンを必要としているらしく、もはやそこに開き直ってしまっている感すらある。それはつまりデザインが経済に先導されているということだ。一見するとデザインが経済に力を与えているようだが、おそらくそうではない。実体としては逆になっているはずだ。

だから最初に賭けに出た者にではなく、大きな経済効果をもたらす者に拍手が贈られて止まないのだろう。たとえそれがアイデアの複製のような行為によるものであっても。

デザインという言葉自体はかつてないほどメディアで取り上げられるようになっているのに、この思考停止の状態には驚くべきものがある。小泉純一郎やら石原慎太郎やらがウケたりするくらいだし、そういう時代なのだと言ってしまえばそれまでだ。それはそれでかつて批評を独占してきた反体制的言説があまりにもお粗末だったことの反動あるいは結果と言えなくもないのだろう。要するにもう批評だのなんだのはうんざりなんだよと。

しかし批評というものは言説活動の中にだけあるのではない。言語化が追いつかない場所への移動を志向し続けること。そして対象となっているフィールドの概念自体を相対化しそこに変形を加えること。そのような運動の前後左右にこそ批評はある。

たとえばなんとなく評価されがちな「いろいろなことをやっている」といったスタンスはべつに威張れるような話ではない。誰かにお膳立てしてもらった複数の既存フィールドに股がり乗っかっているにすぎない場合も多いからだ。そんなものはマルチでもなんでもないし、そもそもマルチとはどういうことなのか、どのように発生した概念で、何を生み出しているのか、何を失っているのか、批評とはつまりそういうことをちゃんと考えるということだ。

もしも横断的という言葉がそんなふうな仕事しか指さなくなっているのなら、本来の意味がどうあれ、もう封印してしまったほうがいい。封印とまでは行かなくとも、それに変わる言葉、それに変わる理解、それに変わる行動へと向かうべきなのだ。そしてそのように変化する志向性の中にこそ批評は存在している。

2007/02/01

094)あらためてデザインのこと<2>

UMEZZ PERFECTION!(楳図かずおデビュー50周年記念出版)のデザインがどんどんすごくなっている。今や何から書いていいかわからないほどだ。こんな仕事は見たことがない。祖父江さんの仕事は『エレキな春』の頃から追い続けてきたからもう20年以上になるはずだけれど、このシリーズこそが頂点だと思う。いや頂点というより、過剰さの感触が異質になっている。

今までの仕事はどんなに過激に見えても説明がついたように思う。優れたデザインとはそういうものだろう。ところがこのシリーズでは飛躍したデザインがさらなる飛躍を呼び、無根拠な選択が随所に見られる。それでいて、よくあるデザイナーのスタンドプレーとはほど遠く、あざとさがない。そのようにあるべくしてある清々しさに満ちている。いったい何が起こっているのだ。何なのだこれは。

もしかしたら、これはもうデザインではないのではないか。いや、これこそがデザインなのではないか。わからない。途方に暮れ戦慄しそのうち笑いがこみあげてきた。叙情も恐怖もギャグもある。もちろん技術も。そして何にも似ていない。あえて言えば、楳図かずおの世界そのものと重なっている。とにかくこんなふうにデザインをとらえ実行する人間など今まで存在しなかったと思う。

楳図かずおという超ど級の天才を前にして、逃げることなく、怯むことなく、全身全霊でぶつかった、これはひとつの「愛の結晶」なのだろう。今はそれくらいしか言葉が浮かばない。

白状すると、祖父江さんのデザインの中に工作舎からの流れが感じられるディテールを発見し複雑な気持ちになったことが過去にあった。けれど、この人は、とうとう、ついに、こんな世界を切り開いてしまった。 「スタッフのヨシリン(吉岡秀典)と仲良く作ってる」とのことなので、単独の仕事ではないのかもしれないが、制作過程がどうであれ、この達成は祖父江慎という稀有の存在によって導かれたものだと言っていい。

と、こんなふうにまじめくさった文章を書いていること自体どうなのかと思わなくもないが、ここにひとつの分水嶺が示されたことだけは間違いない。そのことはしっかりと記憶されるべきである。

「最後がどーなってすまっちゃうのか?なんてゆー、かりそめの期待なんかをすながら読んでてはいけないのら。いまの事態を味わうばっかりで手一杯れいい。お話の中にあやすい事態が発生すても、そりが、なにかにつながるとも限らないぶん、とってもリアリティーれ、現実味をおびるのら。予想のつけられれない独特な物語作りは、だりにもマネっこれきない宇宙一らのら。」(祖父江慎「私のUMEZZ体験」より)

「もうやり尽くされた」といった言葉は、そう思っている人間にとっては真理なのだろう。しかし、まだまだやれることはあるのだ。いくらでも。

「書かれることによってしか存在しないもの」「演じられることによってしか存在しないもの」から徐々に徐々にデザインの話に繋いでいこうと考えていたのに、いきなり飛んでしまった。まあしかし、まとまりのあることが書きたいわけじゃない。

すべて動員して前にすすみたい。

2007/01/15

093)あらためてデザインのこと<1>

ある小説が原作になっている演劇を観て少なからぬ違和感を覚えた。

その小説では、どこか日常とは異なる感触を持った世界が描かれている。主人公がいて、その周囲には複数の登場人物がいて、それぞれの生活がある。その描写がある。確かに日常のようだ。けれども、なんて言ったらいいんだろう、それは「書かれることによってしか存在しないもの」であって、やはりどう考えても日常の感覚なんかではないのだ。

リアリティがある、思い当たる、表面化することはなくともそのような心の機微があることを自分は知っている、つまり感覚として「わかる」。多くの読者がそんなふうに感じている(ことだろう)。日常がしっかりと描けていなければそのような共感は得られない。

しかし重要なのはその先だと思う。わたしたちの大半はただ日常を生きているに過ぎない。が、それでもその精神は日常と異なるどこかに繋がっている。そしてそのことが本人以外に知られることは普通ない。優れた小説(あるいは広い意味での文学)は、そのようなものの存在を、個人を跨ぐかたちで、露にする。わたしたちはそこに普遍を感じる。

文学を、そのような普遍を保存するための形式と考えてみた時、では演劇特有の形式とは何だろう。「演じられることによってしか存在しないもの」とは何だろう。

その演劇を観て感じた違和感は、そのような問いの欠如から来ているように思えた。演劇はナマモノだから「書かれることによってしか存在しないもの」に忠実に向かい合おうとしても無理があるのではないか。

いくらリアルなセットをつくり日常を演じてみても、そんな擬似的日常から導き出される非日常とは何だろう。そこでどのような世界が描けたとしても「それは本当に演劇がやるべきことなのか?」という疑問がどうしても残る。

というようなところから今年はスタートし、一年を通して、徐々にデザインに近づくようにしてみたい。