今の時代、つくったものが何かに似てしまうことは避けられなくなってきていると思う。少なくとも表現上のオリジナリティを主張し合うような段階ではもうない。もちろんいつの時代にも特例は存在する。けれど他の誰かが先陣切って開拓した成果に乗っただけのものを取り上げて、ちやほやしてみたり賞を与えてみたりというのは、いったい何の冗談なのか。
デザインの周辺にバブルを起こしたい向きがあるのかもしれない。不況に対する一種のカンフル剤として。それはまあいいとしよう。しかしそれはあくまで経済の話であって創造をめぐる問題とは言えない。
では何が現在の創造に転換をもたらし、何が次代を切り開いて行くのだろう。もちろんそんなことはわからない。ただ「それではない」ということだけは確実に指摘できる。
最近のデザインをめぐる状況の中で決定的に欠けているものは何かと問われたら「批評」「批評眼」「批評精神」と答えるほかはない。それくらい、まともな批評にお目にかかることが皆無だ。煎じ詰めれば「この人こんな仕事しててスゴいですよねー」というようなことしか言っていない。しかもそれが本当にスゴければまだしも、ちょっと勉強すれば誰の何の影響下にあるかすぐわかるようなものがじつに多いのだ。
今、メディアはただただわかりやすいイコンを必要としているらしく、もはやそこに開き直ってしまっている感すらある。それはつまりデザインが経済に先導されているということだ。一見するとデザインが経済に力を与えているようだが、おそらくそうではない。実体としては逆になっているはずだ。
だから最初に賭けに出た者にではなく、大きな経済効果をもたらす者に拍手が贈られて止まないのだろう。たとえそれがアイデアの複製のような行為によるものであっても。
デザインという言葉自体はかつてないほどメディアで取り上げられるようになっているのに、この思考停止の状態には驚くべきものがある。小泉純一郎やら石原慎太郎やらがウケたりするくらいだし、そういう時代なのだと言ってしまえばそれまでだ。それはそれでかつて批評を独占してきた反体制的言説があまりにもお粗末だったことの反動あるいは結果と言えなくもないのだろう。要するにもう批評だのなんだのはうんざりなんだよと。
しかし批評というものは言説活動の中にだけあるのではない。言語化が追いつかない場所への移動を志向し続けること。そして対象となっているフィールドの概念自体を相対化しそこに変形を加えること。そのような運動の前後左右にこそ批評はある。
たとえばなんとなく評価されがちな「いろいろなことをやっている」といったスタンスはべつに威張れるような話ではない。誰かにお膳立てしてもらった複数の既存フィールドに股がり乗っかっているにすぎない場合も多いからだ。そんなものはマルチでもなんでもないし、そもそもマルチとはどういうことなのか、どのように発生した概念で、何を生み出しているのか、何を失っているのか、批評とはつまりそういうことをちゃんと考えるということだ。
もしも横断的という言葉がそんなふうな仕事しか指さなくなっているのなら、本来の意味がどうあれ、もう封印してしまったほうがいい。封印とまでは行かなくとも、それに変わる言葉、それに変わる理解、それに変わる行動へと向かうべきなのだ。そしてそのように変化する志向性の中にこそ批評は存在している。