2000/06/10

気がつくともう6月も中旬に差しかかろうとしている。リニューアルだリニューアルだと叫びつつ、ちっとも更新してない。いや、アップできるところまでは来てるんですけど、他のHPとか見てまわってるうちに、だんだんWEBに関心がなくなってきちゃいまして…(笑)。やっぱちょっとほっとこうかなと。新しいことに対する興味は全然失せてないんだけど、ネットに接続してる時間が増えていること自体に嫌気がさしてきたっていうか。そんな時間があったら、もっと外をほっつき歩きたいっていうか。WEBのお仕事でうちと関わることになってしまった人なんかがこれ読んだら「なんてイイカゲンなことを言う奴と仕事をはじめてしまったんだろう」って思うかな。思うだろうな。いや、やりますよ。やりますとも。いいものつくりますよ。でもなんていうか、状況に対するイラダチってないすか? あるでしょう。電車の中でずーっとi-modeとにらめっこしてる奴とかあんまし好きになれないし。ネットネットってみんな騒ぎすぎっていうか。うわー、なんだか今日はずいぶんとネガティブなことばっか書いてるなあ。これ全部リニューアルが遅れてることの言い訳?

昨日は狂ったようにCDを買い漁って、ジャンルというジャンルを横断してみるべく、ハチャメチャな聴き方をしてみたらすごく楽しかったですわ。でも結局一番グッと来たのが嘉手苅林昌。うーん。渋すぎ? 最近、年寄りにばっかり目がいってしまう。でもやっぱラジカルな年寄りってカッコイイもん。滅多にいないけど。




2000/06/17

えっと、リニューアル宣言とりあえず却下。そのうちやります(笑)。以前、ここで「4月1日リニューアルとは書いてないので、許してね。4月中リニューアルということで」と書きましたが、2000年4月とも書いていないので「2001年4月までには」ということで。などと詐欺っぽい言い訳をしている場合じゃないな。非は素直に認めるべし。スンマセン見通しが甘かったです。でも機が熟したら必ずやります。

さて、ということで何もなかったような顔をして、まったく関係のない話でもしましょうか。

「経済ってそういうことだったのか会議」(佐藤雅彦+竹中平蔵著・日本経済新聞社刊)を読みました。

佐藤雅彦という人のつくった広告に、僕は今までずいぶんと乗せられてきた。けっして業界的な関心とかからではなくて、彼が広告のつくり手だなんてことなどまったく知らずに「スコーン」「ドンタコス」「チビノワ」の歌を口ずさみつつ、ついつい、これらのスナック菓子に手を出してもいたし、広告ではないけど「だんご3兄弟」にも第一回目の放映時点から子どもといっしょにやられていた。「経済ってそういうことだったのか会議」を買ってしまったのも、特有の匂いに吸い寄せられてのことだ。うまいなあ、と思う。

僕はもともと結構広告が好きな人間だ。広告業界に興味を持ったことはないが、そういう話ではなくて、つまり、生活していて、すぐ広告に騙されてしまうタチなのだ。騙されてしまうのは、好きだから騙されるんだと思う。「騙された!」っていうのはだいたい悪い結果になった場合だけど、騙されている時の心地っていうものは実はそんなに悪いもんじゃない。だってそうでなければ、誰だって最初から騙されたりはしないから。

そういう広告好きの僕が言うのだから傾聴に値する意見だと自負しているんだが、最近の広告ってあまり好きでない。そうは言ってもいろんなタイプの広告があると思うので、ただ「広告」なんて括るのもどうかとは思うけど、なんか今風の、ちょっとサブカルっぽい、「オレたちって広告の枠なんかに縛られてないぜ」とか「オレたちの世代ってこういうのもアリなんだよねえ」的な、60年代生れの人(って僕も60年代生れですけど)がつくっていそうなタイプのもの。はっきり言ってなんかカッコワルイです。だって、それってだいたいが周期遅れでほんとの意味で新鮮なモノじゃないし。だいいち、そんなこと言ってしっかり利用してるじゃんっていうかちゃんと「広告」のシステムに守ってもらっておきながらそんな「いいとこどり」みたいなのはかえってタチが悪い気がするよ。

忸怩たる思いで「いやあ、今の時代、こういうふうにしか凌ぎようがないんだよ。一周遅れでもストリート的なエネルギーを吸い上げていくしかマスレベルのコミュニケーションが生き延びる道なんてないんだ」って歯ぎしりしながら前に進もうとしているんならまだわかるんだけど、制作している60年代生れ(といったらもう30代のオッサンですよ。すでに「若者」と呼べる人間ではない)のインタビューとか読むとなんか自信満々みたいだし、狭い業界の古くさい体質の中にどっぷり浸かりすぎて、何が新しいことなのか、何かを打破していくということがどういうことなのか、わからなくなってしまっているとしか思えない。

そりゃあ、延命に必死になってる業界の中では評価もされるだろう。でも、そういう評価軸を持たない人間にはまったく何も届いていないと思うんだけど。「業界的にはスゴイこと」なのかもしれないけど、それは「業界」のほうが病んでいるというだけの話なんじゃないのかな。

80〜90年代にイノベイトされた広告と「今風の」新しい広告の決定的な差は明らかだと思う。前者が広告のうそっぽさに対峙して真正面から取り組まれたものであるのに対して、後者は制作者が輸入業者のように外部の表現にばかり関心を寄せた結果として独自の問題を発掘することなくつくられてしまっているということ。前者は表現上の課題を他の分野にも突きつけることになったわけだけれど、後者は「広告の外の世界」で生まれた表現をせっせと広告の中に移植して新しさを演出することしかできなくなっているということ。

と書いてきて「じゃあオマエのやってることはなんなんだよ」と自問してみる。すっごく狭いところにしか届いてないかも。ていうか届いてません。でも、そこからはじめるしかないんですよ。これは言い訳でもなんでもなくて、今は、狭くても確実にベクトルの存在する場所を探すしか、ものをつくる人間にとっての選択肢はないと思う。70年代の様々な表現が意図を明確に打ち出しすぎて孤立していった時、そこからこぼれ落ちた大衆的な「気分」を、表現として掬い上げてみせたのが80〜90年代の広告だった。そして、それは行くところまで行って、今ではもう「大衆」そのものが解体してしまった。

そういう意味では、いまだに「大衆」というものを設定してコミュニケーションを成立させようとしている佐藤雅彦や大貫卓也といった人たち(つまり90年代に広告を牽引した人たち)は、ものすごく革命的なことを志向していることになる。

今では、何百万も売れている曲ですら、皆が口ずさむことはない。みんなバラバラ。「大衆」なんてどこにもいない。だとしたらもう数の問題なんかじゃないだろうって僕なんかは思ってしまう。1000人が心の底から求めるものと、500万人がなんとなく消費しているものに優劣をつけても意味はないだろうと。そりゃもちろん、僕らの仕事はその1000人を5000人に増やし、1万人にも10万人にも100万人にも届くようにすることだ。でも、数字が目的なんじゃない。このことははっきりさせておかなければならないと思う。あんたはこれからどんなものを支持していきたいんだい? で、どっちを向いて歩いていくんだい? ということだけが問題なんだ。

「デザイン」という一括りの概念はもういらないように思う。何を加速させ、何を失速させるデザインなのかというところにしか課題は存在しない。旧タイプのデザイナーたちは、自分たちの地位向上のために「デザイン界」というものを形成し、デザインの世界とそうでない世界の間に線引きをしようとしてきたけれど、そんな境界線よりも、AのためのデザインなのかBのためのデザインなのかという差のほうが重要だということ。最近になってあちこちでちらほらと出現しはじめている新しいタイプのデザイナー(主に60年代後半〜70年代生れ)が無意識に選び取っているのはそういう志向性なのだと思う。それは、表面的な表現スタイルの問題ではないし、一世代で完結するようなことでもない。

「オレたちの世代ってこういうのもアリなんだよねえ」なんて言ってる奴らは、当然の帰結として、あと10年もすれば下の世代に対して説教めいたことを言い始めるだろう。余計なおせっかいかもしれないが、よーく見ておくといいよ。今は流行りのものをつくっていても、人の褌で相撲を取ってるような奴らの化けの皮なんてすぐに剥がれるから。そこのところは惑わされずに判断しておくべきだと思う。とにかく「世代」とか言ってる奴は信用しちゃいけない。だってそんなこと言ったらそこでコミュニケーションは終わってしまうもん。

こういうことを書くと、すぐ「誰にケンカ売ってんだよ」と言われるけど、別に誰にケンカを売っているわけでもない。ただ、日宣美を解体した学生運動のような目に見えるカタチではないにしろ、今はそれ以上の価値の転換期にあるのだから、みんなもっと危機感を持ったほうがいいぜって言ってるだけだ。

で、なんだっけ。ああ、そうだ。「経済ってそういうことだったのか会議」の話だった。佐藤雅彦の行動半径の広さの意味を、僕らはちゃんと受け止めないといけないのかもしれない。まだ読んでいない人、本屋で手にとって345ページ〜346ページだけでも読んでみてほしい。「何が起こってもやっていけるような力」を僕らはこれから獲得していかなければならない。そう思いました。




2000/06/22

気がつくと、事務所内には「ペプシマン・ボトルキャップ」がいっぱい並んでる。これ、随分いろいろ種類があるけど、ぜんぶ大貫さんが考えたのかなあ。すごいなあ。参りました。脱帽。いや本当に。

1)ペプシコーラの広告をやることになった
2)コーラと言えばコカコーラという現実
3)ポスターだけつくっててもあんまし意味ないかも
4)じゃあ、オマケでどうだ

「コカコーラ=赤」に対する「ペプシコーラ=青」を印象づける圧倒的キャラの発明+普及。

すごいシンプル。でも今まで誰もやらなかったこと。コンセプトワークとかじゃなくて、直接的なモノの力。商品が弱いから付加価値をつけたって? 違うな。だってそもそもコカコーラってかならずしも商品価値が高くて普及したわけじゃないし「付加価値」なんて発想からこんなモノを思いつく人間はいない。

違うんだ。全然違う。そうじゃない。

比較広告が解禁になった時、「飲み比べてください」ってキャンペーンがあった。でも僕は飲み比べなかった。なんでだろう。直接そんなこと言われてもなんかヤだったんだろうな。

僕はずーっとコカコーラ派だったけど、今はペプシを飲んでる。

ま、コーラなんか飲まないほうがいいんだろうけど(…と元も子もない結論に至る)。




2000/06/23

今月の「言葉王」。湯村輝彦(「デザインプレックス」誌[2000 July No.39]掲載インタビュー参照 )。これはインタビュー史上に残る傑作かも。だとしたらインタビュアーにも栄冠を。10 〜 20年前の音楽雑誌なんかの中に確かに存在していた「言葉のパワー」を思い出しました。




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