2000/09/13 |
右脳:さて、日記復活です。 左脳:誰も望んでないって。 右脳:いや、3人くらいからリアクションありました。 左脳:3人…… 右脳:もっとリアクションくださーい! せめて5人くらいは。 左脳:自分のほうはほとんど何も更新しないでおいて何言ってんだよ。ゲストブックすら閉鎖しておいてさ。 右脳:ゲストブックはダメなの。苦手。何か書き込まれると逃げ出したくなる。 左脳:じゃ、どうしてほしいのよ! 右脳:クリティークしてほしい。 左脳:うそつけ! だいたいクリティークされるようなことなんか書いてねえじゃねーか。 右脳:書いてますよ。赤裸々なデザイナーの内面を訥々と。 左脳:うそだ。 右脳:ホントです。 左脳:いやだなあ、オレ嫌いなんだ、こういう不毛なやりとり。もっと他にやることあると思うんだけど。腐ってもデザイナーなんだからさ。 右脳:やってますよ、いろいろ。しかし、デザイン云々より前にまずは人間として真っ当になろうと。日々努力してるんですよ。ダメでしたけど。 左脳:なんじゃそりゃ。ダメだったんかい、人として。 右脳:ああ。しかしなんだね、こういうところに書いてある文章って、ふつう上から下に読んでくでしょう。でも書いてるほうの時間軸はさ、下から上に向かってきてるわけだよね。ユーザーとプログラマーの接点の不幸ってこういうことだね。 左脳:長い長い前振りの結果がその発言かい。 右脳:いや、過去ここに書いてきたことってさ、どこをとっても、いきなり読み始めるとワケわかんないよね。2年以上も前の第1回目から順を追って読まないとわからないようにできてる。 左脳:そんなもん書くなっつーの。ここ日記のコーナーなんだからさ。第一、それって別に「ユーザーとプログラマーの接点の不幸」なんて高尚な話じゃないでしょ。だいたいキミ、プログラマーじゃないし。たんにワケわかんないこと書き続けてゴメンナサイってだけの話でしょう。 右脳:あながちそうとは言えない。 左脳:言え! |
2000/09/16 |
カメラというのはとても面白い道具で、スイッチを押すと中に光が入って、絵が写り込む仕掛けになっている。そして、驚いたことに、こんな魔法のようなことが、誰にでもできるようにつくられているんだ。しかも、数え切れないくらいの種類のカメラがあって、それぞれたくさんたくさんつくられているという。ということは、世の中には、そんなものをつくってしまう人間がたくさんいるってことだ。ほんとうに驚いたことにね。彼らはいったい何のためにこんなものをつくってしまったのだろう? 理由はいろいろ考えられるけど、ほんとうのところはわからない。IT革命でも何でも同じことだけれど、目的なんかないんだろう。面白いのはそんな無根拠な「発明」に後続の人間がどう絡んでいくかだ。世の中には静止しているものなんかひとつもないから、同じようにスイッチを押してみても、カメラが写す絵は全部違ってしまう。ただ、同じような光を当てて、同じようなタイミングでスイッチを押すと、同じようなものが写ることは確かだから、そうやって上手に写し取った絵をたくさん集めて「さあ見てごらん。素晴らしい絵だろう。真似なんかできないよ。できるもんならやってみな。もし、こういうものがもっと他にも欲しかったら、僕に頼むしかないのさ」って主張する男が現れた。人々は、彼のことをカメラマンと呼んだが、そのうちに「いいや、オレはカメラマンなんかじゃない。写真家だ」と主張するようになった。カメラの中に写り込んだ絵は、手で描いたものとは違って、ほんものそっくりだ。われわれが目でものを見ることができるのは、目玉のレンズが光を集めて頭の中に像を浮かび上がらせているからだけど、カメラという偉大な道具はまさにこれと同じことをやってみせたものだから「ほんものそっくり!」ってみんなが思ったわけだ。みんなはそれを「写真」と呼んだ。「でも、それはカメラの力じゃないんだぜ。写し取っているオレ様の力なのさ」と言いたくなったカメラマンは、写真家と名乗るに至ったわけだ。人間の「表現欲求」ってのは、こんなふうにじつにくだらないものだが、そんなことはどうでもいいとしても、人とモノの境界線上にはこんなふうにいつも面白い現象が立ち上がってくる。そのことには俄然興味がいってしまうんだ。 さて。長い前振りになってしまったが、そういう意味で僕は「写真家」という存在にはまったく興味がない。つまり、彼がどんな自意識で写真を撮っていようが、そんなことはどうだっていいということだ。その一方で、写真というやつはほんとうに不思議な代物であり続けている。「真実を写す」と言いながら、どれもこれも違っている。逆に、スイッチを押す人間の企み、あるいは無意識がよく反映されている。押したら写っちまう。そんなバカみたいな行為なのに、なんでそいつが押すと人の感覚を揺さぶる絵が定着されてしまうのか。そもそも写真に記名性なんてもんがあるのか? ないだろ? ないはずだろ? なのになんで……ってところが、写真の謎の核心部分だ。ところが、そういうことに自覚的な写真家というのはほんとうに少ない。カメラマンには面白い人間がたくさんいるものだが、写真家になってしまったとたんにつまらなくなる。記名性を獲得してしまい、そのことを自明化することで、写真を見せることから自分を見せることにスタンスが移行してしまうからだろうか。つまり、自分と被写体の境界線上に存在している問題を、自分の内面の問題だと思い込んでしまうからじゃないか。 内原恭彦のHP(ここを押して)にはデジカメによる写真が掲載されている。僕とのやりとりのことも書き添えてあるけれど(ここを押して)、そこにも書いてあるとおり、僕は彼と「作品」の話をしなかった。それは「つまらなかったから」じゃない。そうではなくて、写真の話なんかする必要を感じなくなったのだ。彼が写し取っているものを見てもらえれば、今まで長々と書いてきたことの意味もわかってもらえるのではないかと思うが、そこに写っているのは、写真家によるものでないばかりか、カメラマンのそれですらない。彼はそんな場所で、スイッチを押しまくっているように思えたのだ。 デジタルカメラは扱う情報量を増やし続け、写真の危うさを極限まで露呈させてしまうことになると思う。そうなれば、今まで「視点」という言葉で信じられてきた「こちら側」の存在すら怪しいものになってくるだろう。僕らは解体しなければならないものをたくさん抱えている。そして、何もかもが途上にある。 |
2000/09/20 |
16日の話の続きをしよう。写真をめぐる自意識の問題は、他の行為にも当てはまる。たとえば、音というものはどこにでも鳴り響いているものだが、楽器などの機械を使ってそいつをコントロールし、耳に届くまでの波動を加工して遊ぶと、たいへんな快楽が得られることをわたしたちは知っている。そして、いろいろな機械を自由自在に操り、本人の快楽を他人にまで伝播してしまう特別な才能の持ち主がいることも。彼らは便宜的に「ミュージシャン」と呼ばれ、また時に「アーティスト」と呼ばれたりもするが、もちろん、音に記名性があるわけではないし、むしろ多くの「アーティスト」が、せっかくの音の快楽をくだらない自意識で台なしにしてしまう場面に出くわすことも珍しくはない。音というものには声も含まれ、その声には言葉というじつにややこしい、道具を介さないインフォメーションがつきまとうものだから、じつのところ、わたしたちはいったい何に反応しているのか、ほんとうのところは自分でもよくわからずにいるのだ。 デザインについてはどうだろうか。よく「デザインは表現ではない」というけれど、人間の行為であるかぎり、どうしたって自意識は介在している。ミュージシャンたちは、時に音そのものの力にはよらず、自意識を音にのせて吐露することで、つまるところ自意識のゆがみを隠蔽せずマシーンの力で増幅させ「表現」に転化することで、人々の共感をえている。聴いているわたしたちのほうにはたいした才能があるわけではないし、音に殉じる覚悟で生きているわけでもないから、往々にして彼らの「表現」によって慰められる。ところが、デザイナーの場合、「表現ではない」ということを隠れ蓑に、もっとタチの悪いやり方で自意識を忍ばせ、ただ自分の延命だけのための行為に走ることがある。 わたしたちは、いつも、つまらない自意識を抱えている。けれど、自意識から解放される瞬間のほうが幸福だということ、そのことだけはほんとうは誰もが知っている。たぶん、カメラもギターもコンピュータも、瞬間的にであれ、わたしたちを至福の場所に連れて行ってくれる道具であることに変わりはない。 |
2000/09/22 |
不良上官:眠いなあ。 下士官:はっ。 不良上官:何が「はっ」だよ。おめえは眠くねえのか? 下士官:はっ。眠いでありますっ。 不良上官:だろ? んで腹は減ってないの? 下士官:はっ。空腹でありますっ。 不良上官:じゃあなんか食えよ。 下士官:いえっ。まだ任務がありますのでっ。 不良上官:まじめだなあ。ところでおめえ「神宮前カルチャー」って知ってっか? 下士官:? 不良上官:なんかあるらしいぜ、そういうのが。 下士官:自分には敵国語はわかりませんっ。 不良上官:カルチャーってのはよお、文化のことだよ。 下士官:はっ。神宮前すなわち天皇陛下のお膝元における崇高なる文化ということでありますかっ。 不良上官:んー、ちょっと違うかも。なんか半径3000メートルのクリエイティブ・シーンがどうしたとかって。電波から流れてくるんだよ。 下士官:電波でありますかっ。 不良上官:おうよ。おなごの声でな。ジャミン、ストリイイイトとか言ってんだわ。 下士官:? 不良上官:まあどうでもいいんだけどさ。ところでその任務ってのまだ終わんないの? 下士官:はっ。終わりませんっ。 不良上官:適当なところで遊び行こうぜ。ジャミン、ストリイイイトにでも。 下士官:任務はまだまだ続きますっ。 不良上官:何の任務よ。何やってんの? さっきから。 下士官:図案制作でありますっ。 不良上官:どれどれ。お? おめえ、これ英語じゃねえかよ。 下士官:自分にはわかりませんっ。自分はただ意匠として扱っているだけでありますっ。 不良上官:うひゃー、おめえ、なんか悲惨な境遇にあるなあ。 下士官:自分にはわかりませんっ。 不良上官:じゃあいいや別に。俺はちょっと横んなるよ。 下士官:はっ。 不良上官:がんばってね。 下士官:はっ。がんばりますっ! 不良上官:じゃお先。 |
2000/09/25 |
不良上官:日本、アメリカに負けちゃったよ。 下士官:えっ!? 不良上官:悔しいなあ。こともあろうにアメリカに負けるとは。 下士官:自分には信じられませんっ。 不良上官:だよなあ。でもこれが現実なんだ。受け入れなくちゃ。 下士官:自分は切腹しますっ。 不良上官:おめえが切腹したってしょうがねえだろ。 下士官:どうすればいいんでしょうかっ。 不良上官:知らねえよ。しかし、ブラジル、イタリア、ナイジェリアも負けたんだから、わかんないもんだねえ。 下士官:? 不良上官:まあ五輪なんてどうでもいいやね。要はW杯でどこまでやれるかだから。それにしても今回感動したのは通訳のダバディだな。こらえきれず、通訳もできないと。言葉以上に伝わるものがあったよなあ。 下士官:?? |
2000/09/29 |
A:『イラストレーション』(No.126) でヒロさんに「とてもすばらしい方である」って誉められちゃったよ。 B:のっけから自慢話かい。 A:そうそう。 B:嬉しいんだ。 A:嬉しい! B:よかったねえ。 A:なんだよ、その醒めた言い方は。 B:フツーそんなことでそこまで露骨に喜ばれると狼狽するよ。 A:だって嬉しいもんは嬉しいもん。誉められたら嬉しいっしょ、誰だって。あ、オマエ、ひがんでんだな? B:ひがむか、んなことで。それよりさ、危機感とかは感じないの? A:え? なに? なんの危機? B:いや。いいよ、もう。 A:なによ、なによ。言ってよ。気になるじゃん、そういう言い方されると。 B:ヒロさんはいい仕事してるよね。そのうえいい人だから他人のこと絶対悪く言わないけどさ、ヒロさんに仕事頼んでる人間ってコラボレーションとか言って結局は人の褌で相撲とってるだけじゃん? A:またそんな波風たてるようなことを。 B:だってそうだろう。最近のいわゆる若手ADってみんなダメだと思うぜ、オレは。たいした仕事してないよ。エンライトメントのすごいところは「次」にすすむための自己プレゼンテーションをしてきたところでしょう。触発されていっしょに仕事をするっていうんなら、そのさらに「次」にすすむためのものをださなきゃダメだと思うよ。それができてないんだもん、どのADも。 A:いや、オレはいつだって「次」を意識してきたつもりだけど。 B:ダメダメ。ぜんぜん不十分だと思うな。エンライトメントの繰り出してくるイメージをただ消費してることがあるじゃん。 A:きびしいなあ。 B:それくらいの腹はくくれよ。ものをつくる人間ならあたりまえのことだろう。この際だからハッキリさせておいたほうがいいと思うんだけど、日本の60年代生れのADってみんなちょっと勘違いしすぎてるよ。周囲がもちあげすぎてるせいもあるんだろうけど。なんでみんなもっときびしい言葉を投げかけないかな。口を開けばクリエイティブだ最先端だって言うけどさ、いっぺんデザイナーズリパブリックのイアン・アンダーソンにでもまとめてコテンパンに言ってもらったほうがいいよ。 C:た、た、たいへんだあー! A:うわ。またへんなのが出てきた。 C:すごいの見ちゃったんだよ。 A:なになに? C:花園ゆかり。 A:誰それ。 B:知らない。 C:ダメだよ、そんなことじゃ。やばいって、花園ゆかり知らないと。東に辛酸なめこあれば西に花園ゆかりありだ! A:わかんないよ。 C:元宝塚なんだけどさ、着物のデザインやってんだよ。その絵がすごいんだ。尋常じゃない。 B:どうすごいの? うまいの? C:いや、うまいとかうまくないとかは完全に超越してる。技術もへったくれもない。っていうか構図も色も壊れちゃってる。そんでもって、テディベアから不思議の国のアリス、果てはディカプリオまで出てくるんだ。ふつうの呉服屋に並んでるれっきとした着物の柄の中にだよ。アーティストの余興とかそういうんじゃなくて。信じられるか? ああ、もう言葉にできなくてもどかしい! とにかくショックだ。しばらく寝込みます。 |
ARCHIVES |