2002/11/13 |
人間失格。言わずと知れた太宰治の小説のタイトルだが、作品が書かれたのは太宰治三十九歳の時。そしてこの年、入水自殺している。 現在の私は四十一歳。いい歳をしてネット上にこんなものを書き綴っていること自体、「恥の多い生涯」であることは間違いない。そして、この「恥の多い生涯」は、カッコイイ最期を迎えることなど決してなく、ひたすらカッコワルく継続していくのだろう。 先々週の話。私は元スタッフの結婚式出席のため新幹線で名古屋へと向かっていた。「次は京都〜」のアナウンスで目を覚ます。これだけであればまあ「よくある話」といったところだろうが(一般的には「よくある話」なんかではないかもしれないけれども)そもそも私は結婚式の招待状を紛失していた。 「確か結婚式の招待状が来てたよね」と他のスタッフに声をかけたのは式の前々日。「あさってですよ」とあきれられつつコピーをもらっていたのだった。翌日、急いでスーツを買い、寝坊しなくていいだろうと事務所に泊まり込んだのがいけなかった。他の同行者と東京駅で待ち合わせをしていたのだが、明け方寝てしまい、待ち合わせ場所からの「今どこですか?」という電話で目を覚ますことになった。 ところが。今度は招待状のコピーが見つからない。折り返し電話をするも繋がらず、当日の朝になって「どこに向かえばいいのかわからない」という絶体絶命のピンチに。仕方がないので最後の手段として、式の準備に追われる本人の携帯へ電話。ここでもまたあきれられつつ、式場までの順路を確かめる。今ならまだ間に合う。そう思い直して急いで事務所を出た。 しかし。この日は事務所の内装工事の日で、誰も出社していない朝からの作業のため、管理人さんに一報入れておくことを約束していた。ところが、急いで事務所を後にすることになってしまったため、そのことをすっかり忘れてしまった。 目的地の名古屋を過ぎた京都に向かう新幹線の中で、なにげに携帯を見ると留守電の嵐が。内装工事の人たちは管理人さんに「そんな話は聞いていない」と追い返され、私の留守電には何度も何度も連絡が入っていたのだった。留守電が入り始める直前まで私は起きていた。しかし、時計を見て「もうすぐ名古屋だな。なんとかなるもんだ」と思ったところでストンと眠りに落ちたのだ。そして結局「なんともならなかった」。 人に迷惑をかけるにもほどがある。頭のどこかに穴でも空いているのだろうか。 ちなみに、目的を失い京都へと向かう車中、窓の外の風景は異様に目に染みた。こんなにも風景を愛おしく感じたことはない。「ただそこにある」ということ。そして、意味なんか何もなく「ただそこにあるものを見ている」ということ。「ま、こういう人生もありっちゅうことなんやろね」などと妙な達観に至りつつ、しかし京都駅で生八つ橋を買うことだけは忘れないのだった。 教訓。このように「なんともなっていない」私は今日ものうのうと生きている。生八つ橋も食べた。こんなことでいいのか。いやそれとも、それもこれも含めて「なんとかなっている」ということなのだろうか。皆目わからない。(そしてちっとも「教訓」になっていない) |
2002/11/15 |
「デザインが好き」なんて言ってる人間よりも「デザインのことはよくわからないしあまり好きにもなれない」という人間のほうに共感できなければ、前に進めなくなる時がくると思う。それはもちろん、デザインなんかどうでもよくなっていくというようなことではなく、そこを乗り越えクリアしていくほかなくなるという意味でだが。 デザインはちょっとだけ人を幸せにすることもあるが、矛盾から目を逸らすような役割を担わされていることのほうがはるかに多い。それは言ってみれば「声なき声」というやつで、もっとも表面化=意識化させにくい部分だ。「ここが好き/ここが嫌い」「ここがいい/ここがよくない」ということはすぐ言葉にできるけれども「よくわからない」「あまり好きになれない」といった感覚はほとんどの場合飲み込まれてしまう。そして、こうした感覚は澱のように底辺へと沈んでいく。存在しなくなるのではなく、見えないところに存在するというやっかいなことになっていく。 そこに届きたい。そう簡単にいくとは思わないが。 |
2002/11/20 |
もう20年近くも前になるが、僕はこんな夢を見ていた。ある立体物があり、その多角体のすべての面で画像が動いている。しかも、その多角体自体が動いているので、それぞれの動画の流れはまったく掴めない。何が起こっているのかさっぱりわからない。でもいずれこういうものが出現することになるのだろうと夢想した。目が覚めた時、その時点でいいとかわるいとか言われている表現の評価軸がすべてご破算になるように思えて、ものすごい解放感に満たされた。と同時に、何をすればいいのかまったくわからず途方に暮れた。 その頃の僕は、目をつぶっている時に網膜に映っているものを把握しようと必死になっていた。瞼を綴じていても、人はいろいろなものを見ている。にもかかわらず、誰もそのことについて語らない。瞼の中の血液を透過した光に反応して「明るい」とか「暗い」とか言っている。そんな雑駁な話しかしない。確かに、明るい場所では赤が、暗い場所では黒が強く感じられるが、どちらの場合であっても、じっさいには把握しきれないほどの複雑な模様が浮かんでは消えている。視覚表現は最終的にここに向かわざるを得ないのではないか。そんなふうに思って、瞼に浮かぶ模様を追いかけていた。 なんでこんなことを書いているのかというと、今まで見たこともないような模様を今日見たからだ。その模様はずっと奥まで続いていた。ずっとずっと奥の奥まで続いていた。 |
2002/11/21 |
「ピース」。とりあえず深夜にひとりつぶやいてみた。ははは(力ない笑い)。ぜんぜん似合わない。似合うも似合わないもないか。まわりにはだーれもいないんだし。しかし「ピース」が似合わないなんてちょっと哀しいな。「ピース」が似合う人はほんとうに羨ましい。いや。羨ましがっているようじゃいけない。デザイナーたるもの「ピース」のひとつも言えなくてどーする。つぶやきとかじゃなく、もっとこう力強く言えばいいのかな。「ピーース!」。もっと叫ぶように。「ピーーーーッス!!!!」。 仕事しよっと。 |
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