1998/07/17

約2ヶ月ぶりの日記。つーことは日記ではないな。ここのところ、バカみたいに仕事ばかりしていたので、バカになってしまっている。まあ、バカが悪いわけではないので、それはそれでかまわないんだけど。最近、デザインが極端に分裂していってる。特に最新号の「composite」は何が何だかわからない状態。でも、この感じも悪くない。というか、もう開き直りました。7月末から8月初旬にかけて店頭に並ぶと思うので、手にとってくれたら嬉しいです。




1998/07/18

徹夜仕事が常態化している。まずい。

この土日には、たまったワールドカップの録画を一気に見まくろうと思う。しかし、日本代表をめぐるマスメディアのヒステリックな反応はぜんぜん理解できない。誰かを悪者にしたてあげ、リンチしたくてしかたない人間が腐るほどいるということだけはよくわかった。ひどいもんだ。日本のサッカーは確実に進歩しているけど、マスメディアはとめどもなく退行している。マスメディアの人間は、2002年の代表チームのことなんかより、自分たちの無能さのゆく末を案じたほうがいいんじゃないか。

それにしても、ジャマイカ戦の小野にはほんとドキドキした。クリエイティブっていうのは、ああいうことをいうんだろうな。




1998/07/23

最近、原耕一さんのデザインが気になっている。「ミュージックマガジン」の表紙が毎号すごくいい。

デザインのことを考える時、頭の中でサッカーに比較していることがよくある。デザインは、実際にはローカルかつポリティカルな曖昧さと不可分で、世界水準が誰の目にも明らなサッカーのように、インターナショナルな明解さを持ってはいない。僕らの目は何重ものフィルターで曇り、ロジックで十分に解析できることまでが「好みの問題」に解消されてしまっている。けれども、少なくとも僕の中では、デザインとサッカーは同じロジックに貫かれている。僕自身は、才能を持った選手たちがプレーの中で見出す「真理」に触れることさえできなかったできそこないのサッカー少年に過ぎなかったが、ある意味、その敗者復活戦を闘っているのかもしれないなと思うことがある。

前回も書いた小野のプレーだけれど、誰もが気付くように、ボールに絡んでいない時のポジショニングと視野がバツグンで、ワンタッチで局面を打開する目の醒めるようなパスを出す。好みということで言えば、ドリブルで強引に中央突破していくようなプレーにも魅力を感じるわけだが、それは一種の伝統芸のようなもので、それだけではどうにもならないのが現代サッカーだということになる。ロナウドがJリーグの2部チームで試合をするのであれば、それだけでも十分かもしれないが。つまり、「好みの問題」というのは、状況の中で自然に淘汰されていくものなのだ。フィジカル面の強さが加わった「世界水準」に、日本人が挑む闘い方という意味では、小野のプレーには今まで見たこともないような煌めきを感じる。

デザインには、最初のアイデア、色面や造形のコントロール、タイポグラフィ・写真・イラストレーション・3DCGなどの使用、コラージュや構成など造形上の技巧というように、動員できる要素はいくらでもあるわけだが、原さんのデザインには、必要最小限の道具を使ってどれだけパワーが引き出せるかという、個々の要素に還元できない力を感じる。サッカー選手が試合に出てナンボであるように、デザイナーも舞台がなければどうしようもない。原さんの仕事がもっと見たい。




1998/07/25

イトイさんのホームページ「ストック」と「フロー」の話が書いてあった。おもしろい話なのでぜひ読んでみてほしい。これから書くことは、イトイさんの話に触発されつつもその文脈とはあまり関係なく、なんとなく普段から思っていたことです。

たとえば受験勉強の弊害を語る人などがよく知識の「ストック」を批判するけれど、「ストック」そのものを批判することには何の意味もない。漫然とでもなんでも、生きているかぎりは時間の経過とともになにがしかを「ストック」せざるをえないからだ。職人の顔に威厳が伴うのも「ストック」によるものなら、多くの政治家の顔が醜いのも「ストック」によるものだろう。受験勉強がくだらないのは、「ストック」が重視されすぎているというよりも、無意味な「ストック」に無限に耐えられる人間を選択するための「我慢比べ」が目的になっているからだと思う。

「ストック」自体は、創造性にとって不可欠な要素だ。しつこい例え話だが、小野のプレーを支えているのもまずは「ストック」である。ボールキープも精度の高いパスも「ストック」なしにはありえない。ただし問題はその先だ。人を欺くトリッキーなプレーがどうして可能なのか、という話になったところではじめて「ストック」では説明できない領域に出くわす。「フロー」がそれを説明する概念だと言いたいところだが、この言葉は人をわかったような気にさせるだけで実のところ何も説明してくれない。

デザイナーという職業も、基本的には「ストック」で成り立っているが、常にプラスアルファが要求され、しかもそのタイムスパンはとても短い。料理人などは、食欲という比較的安定した欲望が対象だから、長年の「ストック」がより重要になるのだろうが、デザインの場合そうはいかない。「ストック」は重要だが、それは背景に沈んでいなければならないのだ。それはサッカーでもデザインでも同じだと思う。「ストック」が前面に出た試合(作品)を人は「退屈」と呼ぶ。

歳をとるとどうしても「ストック」に頼るようになってしまうものだが、それがデザイン的な技能だけならまだしも、人脈や権威といった政治的な「ストック」に頼って生きる姿は醜い。原耕一さんのデザインがカッコイイのは、そういうことが感じられないからだ。




1998/07/28

ちっとも日記になっていないので、ちょっと日記めいたことでも書いてみる。

日曜日は溜まりに溜まった食器という食器を延々洗いつつ、ずっとTVを見ていた。しまいには見るものがなくなって、気がついたらNHKかなんかの深夜の音楽会だかなんだかという番組を見ていた。

自分と同じくらいの年齢のなんとかという芸大出身の指揮者が、顔面を奇妙に変化させ、ベートーベン第5番「運命」を指揮している様が目に入ってきた。司会者は「その表情からも彼の音楽に対する情熱が伝わってきましたね」とかなんとか言っていたが、「もしこれがギャグでないなら、こんなにころころ表情を変える人間は信用ならんな」というのが率直な感想である。

視力の悪い人特有の細目が突如として見開かれたり、恫喝の表情が急に意味不明のやさしい表情に変わったり、そうかと思うと突然ウットリと恍惚の表情を浮かべてみたりという具合で、シラフでこんな人に出会ったらさぞかし気味の悪いことだろう。

しかし、もし、街頭であれをやっていたら、立ち止まって見てしまうかもしれない。そして、小銭くらいは投げてしまうかもしれない。ということはそれだけで芸になっているということだし、音は全然耳に入ってこなかったが、十分楽しませてもらったということだ。ありがとう、芸大の人。デザイナーもあれくらいの顔面運動能力を身につけて、プレゼンの時などに披露したらいいかもしれないと思いました。でも、ベートーベンは好きでないので、TVを消してユーザロックの「ザ・グラフィティロック'98」を聴いた。




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