1998/08/03

もう4年前になるけれど、「ワイアード日本版」創刊の準備にかかわるようになってから、仕事のやり方がそれまでとガラリと変わった。いわゆるデジタルプリプレスというやつだ。従来のように、写植版下の作成から製版までを「指定」するのではなく、印刷の前(プリプレス)までの工程をほとんどデスクトップ上で完成させてしまう。

そのことのプラスやマイナスについて語ろうと思えば、なんとでも言うことはできるが、そんなことに意味があるとは思えない。事態はただなしくずしに進行してきただけのことだ。

今のやり方もいつかは古くさくなるだろう。その兆しはすでにあると思う。僕らはもっともっと広い場所に出ていきたい。




1998/08/05

床に段ボールを敷いて寝るのがわりと好きなほうだ。

「デザイナーに見えない」とよく言われる。「だって俺デザイナーじゃないもん」と言い返しそうになるが、職業柄、そういうことは言わない。最近は「どちらかというとレントゲン技師ってカンジ」とか言われた。レントゲン技師に知り合いがいないので、どんなカンジなのかよくわからない。「ママチャリが日本一似合う男」と呼ばれたこともある。でも、ママチャリはスピードが出ないのであんまり好きじゃない。

スコットランド人のオヤジはスカートが似合ってうらやましい。あと、あのヘンな笛も好きだ。




1998/08/29

道を歩いていて「もうここらへんでしてしまおうか」と思うほどに突然の脱糞衝動にかられることが立て続けに2回ほど起きた。あぶない性格だと思う。




1998/08/30

葛西薫さんのことを最初に意識した頃のことを突然思い出した。

確か80年代にパルコが主催していた日本グラフィック展か何かだったと思う。その頃、僕は神田にある美学校というところに出入りしていた。60年代から70年代にかけて、華々しい反芸術運動を繰り広げた赤瀬川原平さんらが講師をしていた学校だ。そこの生徒の絵が、葛西薫賞(だったと記憶している)を受賞した。それは素朴な鉛筆画で、人が絵を描くということの、根っこの衝動のような、宗教になる以前の祈りの気持ちのような、そんなものが定着されていて、先が見えずに悶々としていた当時の僕にとっても救いになった絵だった。鉛筆だけで、不器用に、けれどもとても丁寧に丁寧に描かれたその絵からは商業的な匂いがまったくせず、かといって、ゲージュツ家が陥ってしまうような、他者を拒否する自己満足とか観念的とかいうものの腐臭もただよってはいなかった。その絵が救いになったのと同じくらい、厳しい競争原理にさらされている広告のアートディレクターがその絵に惹かれているという事実が、僕には大きな希望だった。

そんなことを、子どもとメシを喰っている時に思い出した。




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