1998/10/16

10月23日(金)の10:00から池袋サンシャインシティ・コンベンションセンターで行われるSEYBOLD TOKYO SEMINERSのコンファレンスのための打ち合わせで、AXISの宮崎光弘さん、HIGRAPHの東泉一郎さんと話をした。

もらったお題は「DTPはグラフィックデザインの質を落としたか?」というもの。でも「DTP」という枠でモノを考えなければいけないこと自体が、僕らには辛い。また「…はグラフィックデザインの質を落としたか」という言い方にも、何か予断があるように思う。今までの「グラフィックデザインの質」は本当に高かったのか。そんなこと、どうとだって言えるだろう。DTP以前にもどうしようもないものはいくらでもあったし、DTP以降になって俄然輝きだしたものもある。同じように、その逆だって腐るほどあるわけだ。

たとえば、Macの普及で、デザインが均質化したという意見がある。でも、活字には活字の均質性があったし、写植には写植の均質性があったと思う。その中で図抜けたことをやっていた人というのはその枠に収まりきらないことを考えていたごく一部の人間だ。そして、これからだってその図式はきっと変わらない。

ただ、確かにコンピュータには今までにない特性がある。「簡単にコピーできてしまう」という点だ。最近のデザインの流行は、このことと深く関係している。僕はそのことについてはわりと楽観的に考えていたのだが、東泉さんは個々の要素を具体的に挙げながら、その弊害について指摘していた。今ここでその話をすることはできないが、東泉さんの分析(解析と言ってもいい)は理系出身者だけあって実にクリアで、本当に考えさせられるものがあった。

昔だったらマネをするにもすごい労力が必要で、つまりは相当な覚悟が必要だったわけだが、現在マネをするだけで済ましている人というのは、そういう覚悟もなく、ただラクをしているわけで、そんなところから人の意識を喚起するものが生まれるわけがない。逆に、一見して労力がかかっておらず、それがすごくシンプルに見えていたとしても、本当に力のあるものっていうのは、それまでにそれ相応のエネルギーが注がれてきたはず。そこに至る「エネルギーの総量」が乏しいものはやはりそれだけのものだろうと東泉さんは言っていた。

Macの前に座ることがデザインをすることなのではなく、あらゆるものに対する関心の強度がデザインを決定するのだというごく当たり前のことを、僕は少し忘れかけていたかもしれないと反省もした。




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