1998/12/10

私はすんげー、機械に弱い。弱いというのは、操作に関してからっきしダメっていうのと、にもかかわらず、フェチ的にメロメロという意味と、両方です。で、そんな私のところに、バイクのデザインをしている人からメールをいただきました。インターネットの醍醐味ですな。そんな人とイキナリ的に知り合えるってのは。かっこいいなあ。すごいなあ。と思うんである。で、その人にバイクに関する意見を求められたんだが、今日はその内容をペーストして、お茶を濁すことにしました(前に日記を書いてから2ヶ月もたってるしな。このペースだと年間6回。これを日記だと強弁すると、1年は6日っつーことになります。まあ、それもまたよし)。

私はバイクは免許を持ってませんが、乗れます。なんでかは秘密です。バイクに関してえらそうなことは何も言えませんが、すっげーカッコイイのがあったらこの歳(37歳)で免許を取り直してもいいと思ってます。バイクは遅くてもシンプルかつヘンテコなのがいいです。東欧では、オカーチャンが子供をオブったりあちこちにくくりつけたりして、5人乗りくらいで走っていると知人から聞きました。そういうライフスタイル自体がなんかカッコイイです。ファッショナブルかつスタイリッシュであると思う。ちなみに、なくなったドアの代わりに段ボールを張り付けたクルマも走っていたそうです。カッコよすぎるぞ、東欧!

バイクの話ではありませんが、日本は、ピカピカのクルマが偉そうに飛ばしててむかつく。歩行者に対して無礼なクルマを走って追いかけることもしばしばありますが、追いついたことはありません。無闇にクラクション鳴らすドライバーには拡声器を使って耳元で叫んでやりたい。あと、足踏まれたこともあるんだよな、クルマに。痛いっつーの。




1998/12/20

なんだか最近よく取材を受ける。「デジタル時代のデザイン」というような文脈であることが多い。僕はまったく受動的に、成りゆきでコンピュータに接してきただけだし、アプリケーションの使い方ひとつとっても、人が知らないことなんか何ひとつない。まわりのスタッフが“通”な使い方をしているのを見て「なるほどー」とか口では言いつつ、新しい操作とかショートカットとか覚えるのが面倒で、いつまでもまどろっこしいことをやっている人間である。だから、だいたいは、まずお断りする。それでもいい、そんな人の意見こそほしいとか言われて、その気になって適当なことを並べ立てるわけだけれど、我ながら意味のないことをしゃべっていると思う。

こういう商売だから、少しでも仕事の内容を人に知ってもらえて、出会いに結びつき、また新しい仕事ができるということはありがたい。そして、「新しい出会い」を媒介するものが「デジタル」であることはとても多くなってきている。それは事実だ。ただ、そういうことに対して、何か気の効いたことや、積極的で意味のあることを言おうなんていう気持ちはこれっぽっちもない。

どう言ったらいいのか、つまり「巻き込まれる」ことが好きなだけなのだろうと思う。僕は、世の中のほとんどの人がそうであるように、だいたいのことに対して「しかたねえなあ」と受け身で生きている。そして、そうでありながら、やはり世の中のほとんどの人がそうであるように、向こうから勝手にやってくる「現実」とうまく折り合いをつけたいと思っている。のらくらのらくら行き当たりばったりで生きていきたいのだ。

ある分野に秀で、かつそれが好きで邁進している人がいるとする。個人の問題としてなら何もケチをつけるようなことじゃない。でも、好きなのに得意でなかったり、得意なのに好きでなかったり、何が好きなのか何が得意なのかもわからなかったりして、その結果好きでもないことに多くの時間を割かなければならない大多数の人間にとって、その人の話は大して役にたたないだろう。僕にとって興味があるのは、世の中の大半を占める「ままならない現実」とどうやって折り合いをつけていくかということでしかない。

コンピュータは、相性のいい人間にとっては素晴らしい道具なのかもしれない。素晴らしい出自をめぐる伝説、素晴らしい理想、素晴らしい可能性、素晴らしい夢の数々、そんなロマンあふれた物語をいくら聞かされたかわからない。でも、正直言うと、どうだっていいんだ、そんなこと。だって、コンピュータは、僕にとってただの「現実」でしかないんだから。僕は、この道具が特別なものでもなんでもない「現実」としてあったからこそつきあってきたんだし。

コンピュータに限らず、「夢」を、個人の思いとしてだけではなく、社会一般の規範にまで拡張して語る人間には本当にうんざりする。スポーツだって、音楽だって、芸能だって、学問だって、政治だって、ビジネスだって、デザインだって、好きでのめりこんで成功してかくあるべしなんて話は、本人以外の人間にとってはおもしろくもなんともないし、説教臭くて息がつまる。「夢」は、そのすべてを個人が引き受けた時にだけ、奇跡的に他人に伝播し、一般化するんだと思う。「夢を語っている」と言えるのは、本人であれ周囲の人間であれ、醒めた人間だけであって、「夢」を生きている人間にとって、それは「現実」以外のなにものでもないはずだもの。




1998/12/22

前回、ここに書いた「バイクのデザインをしているお方」から、お返事いただきました。掲載しても大丈夫なところだけ、載っけます。ほんとは、すっごくおもしろい話が聞けたんだが、そういうことを言っているとお仕事に支障をきたすようです。デザイナーはつらいっすね。

以下転載------------------------------------------------

しんぷるで、かっこいいばいくが、欲しいって書いてありましたが、あたしも、つねづねそう思っております。これまでのバイクのデザイン言語「アグレッシブ、マッシブ、、」とかいうことばではなく、あたらしい、バイクに興味のない人たちのニーズも考えた、プロダクトでザインとしてのバイクをデザインしたかったりするんですけどね。

でも、それで良いデザインができて、デザイン年鑑にのっちゃったりしても、かならずしも、それをかってくれる人は、いっぱいいるとはかぎんないんですよ。一部のでざいんずきとか、コアなひとにしかうけなかったりして、、、、。良いデザインってなんだろう、、、とかさいきんかんがえちゃいますよ。

とかまじめな?はなしをしてしまいましたが、車に足踏まれたって書いてましたけど、あたしは、バイクで、バスとぶつかったこと、ありますよ。なんと、ぶつかったにもかかわらず、こけなくて、(こけてたら、多分他の車に引かれて、、、、)ねんざですんだんですけどね。バスのほうはなぜか、ぱんくしまして、、、、。観光バスだったんで、保険金が、たいへんなことになってましたね。あたしが払ったわけじゃないけど、、。

ピカピカのくるまってひとに偉そうな態度をもよおさせる、心理的な機能を持ってるんですかね。そうゆう機能って研究すると面白いかなあって思います。逆に、超すまない、低姿勢の態度になっちゃうくるまのでざいんとかできたりして。

転載了--------------------------------------------------




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