1999/02/19 |
前回の日記を書いてから早2ヶ月。だいたい昔から日記なんか続いたためしはなかったし、夏休みの宿題を8月30日から31日にかけてまとめてやっていたような人間が、デジタルだインターネットだって言ったってそうそう変わるもんじゃないんである。1日1ページの自由課題を与えられていた小学5年生の夏休み。数日を残してノートは真っ白。仕方ないんで近くの山に行って片っ端から葉っぱをちぎってきて、ただ貼りつけただけのものを「植物観察」と称して提出した覚えがある。その後、手がかぶれて大変なことになってしまったが、まあ、そんなふうにいいかげんな人生を送ってきたわけだ。だったらHPなんかやらなきゃいいようなもんだが、それでもこれをやっていたおかげで思わぬ人と繋がったりもするので、やめられない。ただなんとなく続いてるものがあってもいいじゃん。と開き直っておく。 ちなみに、1週間ほど仕事で沖縄に行ってました。宜野湾の「島唄」、立ち寄れる日にかぎってライブが休みだったのが超残念だった。すべての日程を消化し、空港へ向かうバスの中で、なんだか知らないけど突然「パラダイス・ビュー」「ウンタマギルー」「ロビンソンの庭」といった映画の中の場面場面がぐちゃぐちゃになって頭の中に蘇ってきた。遠くへ、もっと遠くへとでもいうように。 |
1999/02/26 |
「コンポジット」という隔月の雑誌のデザインを1年以上やっている。去年まではシナジー幾何学という会社から発売されていたが、そこが倒産したので今は幻冬舎が発売元になっている。幻冬舎は今ではかなりメジャーな出版社だと言っていいと思うが、この雑誌自体は都市部の一部の書店を中心に売られていることもあって、一般的にはあまり知られていない。内容も、ファッションのこととか、単館系の映画のこととか、興味のない人にとってはどうでもいいようなことが中心になっている。まあ、あらゆることは興味のない人にとってどうでもいいことだが。デザイン的に言ってもかなりミニマムで、とても大衆的とは言えないシロモノだ。僕が昔やっていた「ワイアード」のデザインも全然大衆的ではなかったが、あの頃と今ではスタンスがずいぶん違うような気がする。 極端に言えば、「ワイアード」をやっていた頃の僕は「こういう雑誌が存在することに勇気づけられ、それをかけがえのないものと感じてくれる人間が、たった一人でもいてくれればいい」と思っていた。僕の意識はずっと、世の中のほとんどのことが気に食わず、いつも何か特別なことはないかと飢えている、とても孤独な、かつての自分のような「たった一人」に向かっていた。僕にとって、数の問題とは「それを続けていくために最低限必要なこと」であり、だからこそとても大事なことでもあったわけだが、どうでもいい数万人よりも投げた球を確実に受け止めてくれるごく少数の人間の存在を意識してつくっていたと思う。これは、あくまで僕の個人的な精神態度であって、当然のことながら、編集をしている人たちはそれぞれに異なる思いがあっただろうが。 「コンポジット」は、雑誌であるということを除いて「ワイアード」とほとんど接点を持っていない。たとえ同じような対象について扱っていることがあったとしても、全然違うのだ。雑誌というものは、言ってみれば、編集長の世界観を投影したものだ。小林弘人と菅付雅信という二人の人物に共通点を見出すことは難しいと思う。誤解を恐れずに言えば、「コンポジット」はカルチャーという消費対象を決してリアルな現実に結びつけることなく、ただひたすら表層的なものとして評価するという80年代的なスタンスでつくられている。80年代を批判するのは簡単なことだ。が、バブルがはじけようとエコロジーが叫ばれようと、人間は「無駄なこと」を決してやめない。「コンポジット」は、そんな業のようなものでできている、過激に無意味な雑誌なのだと思う。見るからに尖っているデザイン、あるいは世間的な王道を行くデザインは似つかわしくない。どちらも、スタイルとしてわかりやすすぎるからだ。だとしたら、「妙におとなしいアヴァンギャルド」「決して受け入れられないスタンダード」というような矛盾したデザインを探っていくしかないのではないか。そんなふうに考えてみたのだ。では誰に向けたデザインなのか? 不特定多数でも、どこかにいる「たった一人」でもない。未来の自分に見せたくてつくっている、としか言いようがない。もちろん、ちっともできちゃいないが、淡々としているのに強度のある表現形式に惹かれている。主張など何もなく、無意味なのに存在感があるもの。自分はちょっと特別だと思っている人間の期待をはぐらかすようなもの。あちこちで死産したデザインの数々からもう一度組み立て直されたようなもの。 少し具体的な話をしよう。たとえば、HELVETICAやUNIVERSE、altERNATE GOTHICのようなスタンダードな英字書体を使用する場合に、アウトラインを取り直したり、それをまた少しづつ変形させて使用してみたりといったことは、雑誌を眺めている人の意識にはほとんどのぼらないもので、言ってみれば、てんで無意味なことなわけだが、ある時点で、言葉では言えない強度を発揮するはずだという確信がある。なぜ、僕らは、こういった外来の文字をカッコイイと見なしているのか? そのことに対して批判的見解を述べているだけでも、また、ただそのまま受け入れているだけでも、見えてこないことがある。同じようなことは、日本語の書体を使用する場合にもあるし、写真をレイアウトする場合にも色を選択する場合にもある。いわゆるステレオタイプというものがなぜ存在するのか。深くその中に入り、そこから脱する糸口を見つけようと思っている。 |
1999/02/27 |
26日のDIARYを読み返してみると、一般的であることを嫌う、すげーめんどくさそうな人間みたいだが、ワイドショーや週刊誌、スポーツ新聞なんかもよく見るし、実際には、大衆的と名のつくものにどっぷりと漬かった生活を送っている。高校生の頃から大衆浴場・大衆食堂・大衆割烹・大衆酒場には大変お世話になってきたしな。「大衆なんていない。そんなものはマスメディアがつくった悪しき幻想だ。いるのは個人だけだし、個人的な判断がすべてではないか」というしごくまっとうな意見があることは知っている。また、そういう「大衆嫌い」のメンタリティにも共感できるところはある。そうでなければ、「ワイアード」だの「コンポジット」だのといったものと関わったりはしなかったろうと思う。にもかかわらず、僕は「大衆的であること」が大好きなのだ。外在的にポーズでこういうことを言う人間もいるが、そうではない。 「ワイアード」にしろ「コンポジット」にしろ、興味のない人にとってはどうでもいいようなことしか書かれていないとしても、少なくとも興味のある人間には強く喚起する何かがあるだろう。なにしろ、そういうふうにつくっているのだから。「数の問題ではない」という態度。それはある意味で、すごく健全なものだ。一方、ワイドショーや週刊誌、スポーツ新聞で語られているようなこと(NHKニュースでも全国紙の記事でも同じようなものだが)は、多くの人々の関心にのぼってはいるものの、実は「あらゆる人間にとってどうでもいいこと」だ。ここには、なんら切実さのない膨大な「数」だけがある。これはいったい何だろうか。本当に謎だと思う。考えてみたら、こんなに不可思議なことはない。世の中のほとんどは、そんな「どうでもいいこと」の集積で成り立っている。どうしようもなくだらしなくて、イライラするほど無意味なことごと。なぜだかはわからないが、そういうことが嫌いになれない。これはほとんど体質的なものだと思う。 |
1999/02/28 |
なんかここのところ大衆的という言葉をやたらと使っている。でもよくよく考えてみたら、この言葉自体すごく変かもしんない。昔、中村とうようという人が「大衆音楽の真実」という本を書いていたけど、それを店頭で見つけた時に覚えたちょっとした違和感のようなもののことを思い出した。ポップミュージックになら馴染みがあっても大衆音楽とは耳慣れない言葉だ。たとえば、沖縄では今でも民謡が「大衆的な」音楽として歌われている。街には民謡酒場があり、民謡の大会は人を集め、テレビでもそれを流している。ネーネーズもりんけんバンドも、そして沖縄らしさを全面に出さないBEGINでさえも、その連綿とした環境の中から新しい音楽を産み出してきた。けれども、そんな状況も少しずつ変わってきている。沖縄アクターズスクール以前・以降という境界線があるような気がしているが、いずれにせよ、大衆的とかポピュラリティとかいうものは、つかまえようとすればその時点でもうすぐに姿を変えてしまうものだし、それぞれの質、それぞれの変遷が複雑すぎて、誰も正確には言い表せないもののように思えるのだ。 それに、大衆的という言葉は、実際、今ではあまり一般的な言葉ではない。僕など好きでよく入っていた「大衆食堂」なんてものもあまり見かけなくなった。ポップという言葉ならよく聞くが、この場合は、多くの人の間に浸透しているというよりも、今風とか軽いカンジとかいう程度のスタイル(表現の様式)のことを指している。吉本隆明の言っていた大衆も、深沢七郎の言っていた庶民も、もうどこにもいないのかもしれない。 僕なんかの世代だとデザインをはじめた時にはまだMacintoshはポピュラーな道具ではなかったが、たとえば、あと何年かして、今の20代が中堅になる頃には、Macintosh以前のデザインは完全に過去の歴史的な産物にしか見えなくなるはずだ。もちろん、またすぐにMacintosh以前・以降という軸自体が無効になってしまう時も来るだろう。変化のスピードは加速され、経験は分断され、人はもっとバラバラになっていくと思う。そして、「大衆なんてもんは幻想だ」という言葉がいよいよもっともらしくなっていくに違いない。 でも、それでも、「大衆」という言葉の中には、無視するにはあまりに大きい、まだ誰も解き明かしたことのない重要な何かが含まれているような気がする。老若男女を対象にした、すごいマスな仕事をやってみたいと思うこともあるが、もしそんな機会があったとしても、いったいどんな方法論でそれを実現すればいいのか、今はまだ想像もつかない。 |
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