1999/04/02

デザインという概念には、たぶん、それほどの普遍性はない、あると言い張る人がいてもいいが、僕には興味がない、それは、ころころと、変わっていくものだから、熟練というのは、実は、少しずつ死に向かうプロセスだと思う、僕らは、積み重ね、積み重ねて、どこか高いところに登り詰めるのではない、僕らは、突然、見晴らしのいい場所を見つけたり、そしてまた、次の瞬間には、見晴らしの悪い場所に迷い込んだり、そんなことを繰り返しているだけ、それだけのこと、でも、同じようなつまらないことを、何度も、何度も繰り返すうちに、ほんの少しは、前に進んでいるかもしれず、そして、それを、進歩とか進化とか呼ぶとして、そういう場所から過去を振り返って見れば、もうあんなことはたくさんだ、もうあんなものにはとっくの昔に答が出てしまっている、そんなふうに思えることも、たくさんあるはずで、つまり、もう相手になんかする必要のない、いくつかのつまらないことからは、自由にもなっていると思いたい、そんな判断には、いつだって、過去よりは今、今よりは未来のほうに分があるだろう、すると、僕らは、例外なく、未来からの視線にさらされていることになる、そんな進化の、その先の進化の、またその先の進化の場所から見ると、僕らの右往左往は、手に取るようによくわかるようになっているだろうから、つねに新しく誕生してくる人たちの視線だけが、デザインをつくっていくのだと思うし、それが、デザインでなくなってしまっていてもかまわない




1999/04/15

「タダダー!」6月号の表紙イラストを依頼するため、ゆらゆら帝国のサカモトくんに会った。帰りにCD「ZUKKU Ni ROCK」をもらって帰ってきた。いい音出してるなあ。なんかすごいピュアなものを感じる。



1999/04/16

最近、アシスタントやアルバイトの問い合わせメールが増えていますが、現在のところスタッフの募集はしていません。ゴメンチャイ。すべての問い合わせに対し、返信したり、電話対応したり、面接したりしている余裕がありません。ただし、作品だけでも見てほしいという人は、履歴書を添えて作品を郵送してください(住所はmapのコーナーにあります。メールのデータ添付は不可)。なお、作品返却希望の場合は、その旨を明記し、金銭的にも作業的にもこちらの負担なしに即返却可能な状態になっていなければ、ほったらかしになります。郵送されてきたものにはすべて目を通し、一部気になるものはファイルしたりもしていますが、基本的にこちらから連絡することはしていません。ご了承ください。当面の採用はないとしても、状況が変わって「一度お会いしましょうか」ということもなくはないです。実際、そういう経緯で来てもらったというケースもあります。でも、期待はしないでください。

うちは理念だけは高々と掲げているので「何かいいことありそう」と思う人も多いみたいですけど、青臭いこと言ってる分だけ経営はいっつもギリギリなんすよ。っつーことは、腹は減るし、眠いし、ファッションの仕事とかやってるわりにはいっつもきたないカッコしてるし、音楽の仕事しててもライブなんか思うように行けないし、行き当たりばったりで生きてきたから将来どうなるのか皆目わかんないし、東京都の財政は破綻寸前だし、老人介護は体力勝負だし、もう大変なんですから。いったいこの先どうしたらいいんでしょうかね。

って誰に向かって何をしゃべってんのかな、ワタシは。




1999/04/21

エッセイの第3回目が掲載されたMdNは5月6日に発売される。内容は「デザインはパッションだ! でも人は歳をとる」というふうになります。20字で要約すると。第1回目は「デザインにはデザインの論理ってもんがある」でした。20字で要約すると。で、第2回目は「楽しけりゃいいじゃないの、デザインなんて」。20字で要約すると。しかし20字ではつぶやきにしかならないから、毎回1800字も文字を綴っているわけだ。だいたい、この3つだけ並べたら、言ってることが支離滅裂だもんな。

「デザインにはデザインの論理ってもんがあるだろ。そこんとこよく考えなきゃ。でもまあ理屈は理屈だ。楽しけりゃいいんだよ、デザインなんて。それと、やっぱ、パッションでしょう。人は歳をとるからそんなのがいつまで続くもんじゃないけどな」って、酔っぱらいか。

いや、待てよ。じゃあ「デザイナー=酔っぱらい」説ってのはどうだ。そう考えると辻褄が合うんじゃねえか? そうするとこのエッセイってのは酔っぱらいが酔っぱらって酔っぱらいについて考えてるわけだ。しかし、それはかなり困った状態だとも言えるな。まあいいや。泥酔してきたら誰か止めに入るだろう。




1999/04/23

イラストレーターの下谷二助さんの出版パーティ(『描く書くしかじか─ニスケは何を考えているのか─』旬報社刊)に顔を出した。その本に、ちらりと名前を出してもらったりもしていて、そんなことが妙に嬉しかった。ちゃんと覚えてくれているのだなあ、と。

最初に仕事を依頼したのは10年近く前だったと思う。その時には直接仕事場におじゃまして、なぜこの仕事を二助さんにお願いしたいと思ったのかというようなことを、一生懸命に説明したりしていた。もちろん、発注の時だけではなく、できあがった頃に受け取りにも行って、色分解の際の留意点などを確認したりしつつ、意味もなく長居をしたりしていた。

二助さんには、「ワイアード」でも山形浩生さんの連載にイラストを描いてもらっていたが、極度に忙しくなっていたせいもあって、FAXとバイク便のやりとりばかりで会うことはなかった。

本当は、連載だろうが何だろうが、毎度毎度会いに行って「今回はどうですかね」なんて言いながら、時間を共有したい。いっしょに仕事をするということは、個人個人の秘やかな目論見はさておき、同じゴールを目指すということだから、ムダに思えるおしゃべりや、ニヤニヤ笑っているような時間がなければ、そのゴール地点はとても貧相な場所になってしまう。そんな気がする。

誰に教わったわけでもないが、この仕事をはじめた20代のころは、そういうことを当然だと思っていたし、イラストレーターやカメラマンばかりではなく、写植屋さんのところにも、製版屋さんのところにも、印刷屋さんのところにも、極力、自分で足を運んでは話し込んでいた。

でも、気がついてみたら、そういうことがめっきり減っている。仕事が忙しすぎるということもあるのだろう。結婚したり、子どもが生まれたり、親が歳を取って動けなくなったりしてくれば、それ相応に稼がなくてはならないし、20代の頃のようにいくらでも自由な時間があるというわけでもない。ただ、やはり、そういうことだけではなく、仕事に対する慣れとともに、奢りのようなものも出てきてしまっているんだろうと思う。




1999/04/26

なんか最近こまかい仕事に対する気の入れ方が緩くなっている。仕事は基本的に「楽しけりゃいい」んだが、そこに周囲のリクツを凌駕する説得力がなければ、そんな仕事が通るわけもない。カワイイ、ルーズ、勢いだけ、といった「計算外」の力に委ねたほうがうまくいく仕事もあるし、緻密さで乗り越えなければならない仕事もある。僕にとって、デザインの「楽しさ」とはこの幅の広さにある。どちらか一方に限定した方法は「楽しくない」。こう言うのは簡単だが、実際に、こういった両極端の仕事が一度に舞い込んでくると、目測を誤ることがあるのだ。「そんなに細かいことが問題なんじゃないよ」という場合と「こんなに精度が低くちゃ伝わんないよ」という場合。どちらにも高度なジャッジが必要だ。判断の精度が落ちるのはトレーニングが足りないから。がんばろう。




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