1999/07/01

病み上がりに加えて徹夜続きであるにもかかわらず、3つも4つも重なっている入稿作業の合間に、発作的にサッカーがしたくなり、あろうことかスタッフを誘い出して屋外でボールを蹴っていたら、めまいがしてきた。

昨日は昨日で、仮眠を取るべき時間帯に、コパ・アメリカ(サッカーの南米選手権)の日本対ペルー戦の生中継を観てしまった。それにしてもすげえな、ペルーは。日本も、確かに数年前には考えられなかったほどレベルが上がったとは思うけれど、なんつーのか、監督の戦術どおりのまじめなサッカーで、世界水準のサッカーに比べたら、やっぱ、まだまだ観ていてそんなにおもしろいもんじゃない。ペルーの選手は、どこからでもどっかんどっかんシュートを打ってくるし、個人技なんかも半端じゃない。キリンカップで日本に来ていた時とはまったく違っていた。そういうことを、キリンの社長さんは知らないんだろうな。

ペルーにだってチーム戦術の理解というものがあるんだろうが、なんとなく、隙あらばそういうものを無視して自分だけいい思いをしてやろうっていう野心のようなものが感じられて、こっちはあくまでショーとしてサッカーを観ているわけだから、やっぱ、そういうことがなんとも言えずおもしろいのだ。

いや、チーム戦略どころではないスゴイのもいる。パラグアイのチラベルトなどはキーパーでありながら幾度も得点を重ねてきた変わり種として有名だが、ひどい政治情勢の中で福祉をほったらかしにして南米選手権なんかに金をつぎ込むのは許せないと言って、出場自体を拒否している。この人、公衆の面前でしつこい記者をぶん殴ったりするほどのケンカ好きだが「人を後ろから襲う奴は絶対に許さない」という信念の持ち主でもあるという。こんなに一徹な人、日本には絶対いません。

ところで、南米選手権に参加したということは、日本も南米の一国になったということなのだろうか。だとしたら、ちょっと不思議な気分。ハワイだって離れていてもアメリカだし、日本も南米ということで別にいいんだけど。でもそしたら、南米予選を勝ち抜かないとワールドカップに出られなくなるのだな。大変だ。

全然関係ないが、今日、心臓の鼓動がレゲエのリズムになっているという人の話を聞いた。

発売前の、レイアウト中の原稿から引用するのは反則なんだけど、テイ・トウワがあるインタビューに答えてこんなことを言っている。「声っていうのは、顔や指紋が違うように、みんな違う。僕が考えてるポップっていうのは、ポップアップしてるかどうかってことだから、人と違うかどうかということ。それは、“人と違うようにしよう”っていうことじゃなくて、普通にやっていれば違うはずなんだ、みんな。声とか顔が千差万別であるように、それは音も同じはず。でも(今のポップミュージックは)そうなってない」。

自分の心臓の鼓動がどんなリズムなのか、なんてあんまし考えたことなかった。




1999/07/13

とにかくたくさんの人間に眺めてもらえるものと、少ない数の人間でもいいから強い思い入れを持って受け取ってもらえるものと、どちらに価値があるのか、本当のところはよくわからない。デザインでめしを食っていこうと思い始めた20代の頃は、後者に加担していくことにしか興味がなかった。でも、世の中には「狭い世界しか知らないくせに思い入れだけは強い」という人間が結構いるもんで、そういう輩をたくさん見てきた反動のせいか、年齢とともにちょっとずつ僕のスタンスも変わってきたと思う。

けれども、それでもやっぱり、「多数を狙う」という発想がもともと自分の中にないせいか、そんな依頼に対しては、どうしても最後にはぶつかってしまうことが多い。「これじゃ少数の人間にしか届きませんよ。もっと一般人にもわかるようにしてください」という言い分が出てきた時、いったい「一般人」ってのは誰のことなんだろうと思ってしまう。それに対してムリに応じた場合、少数の人間にすら届かない、つまり誰に対して投げかけているのか皆目わからないものになってしまうのではないかと思うのだ。

「たくさんの人間」がどういう思いで生きているのかということに対して想像力を働かせるのは大事なことだと思う。また、そういうことがわかる人間になりたいとも思う。けれど、何もわかっちゃいないくせに、わかったふりしているような人間にはなりたくない。でも、実際に多いのがこういう人間なのだ。たとえば、コンビニに並んでいる大手出版社の男性誌などをパラパラとめくってみても、ほんとにみんながこんなものを求めているのか、僕には全然わからない。こういう場所で対象になっているのは、つくり手が勝手に想像している、架空の「一般人」なんじゃないのか? 大赤字を出して廃刊した「uno ! 」の時も思ったけれど、「一般人」なんか狙っても、結局届かない時は届かないのだし、その部門で赤字を出してもいいというのなら、最初から本当に自分がやりたいことだけやったらいいのに。

少数の人間にしか評価されないというのはちょっとばかり悲しいことではあるけれど、当の自分ですら評価できないものを世に送り出すことはもっと悲しい。結局、モノをつくり続けていくということは、高いテンションで自分の思い入れのすべてを投入し、それがどこまで届くものなのかを直視していくことでしかないと思うんだが。




1999/07/16

とあるパーティに出席したのだが、何も考えずに出向いたため、名刺を1枚も持っていかなかった。なかなか楽しい集まりで、名刺をいただいた人には「じゃあこちらから連絡しますから」と約束したりしたのだが、あろうことか、帰りには持ち物を全部なくしてしまった。今頃は、なんだアイツ、口ばっかしで連絡なんかよこさねえじゃねえかって思われてるんだろうなあ。トホホ。




1999/07/22

アートディレクションにかかわった、デジタル・ムービーのための雑誌「effects」がMdNから創刊された。エディトリアル・デザインの面では、まだまだこれからというところ。ただ、今後はエディトリアルだけでなく、編集企画から参加してきた「実験映像」そのものにも挑戦していく。その第一弾として、次号が出る10月までに、イラストレーターのヒロ杉山さん、映像ディレクターの小島淳二さんとすすめている、新しいモーションピクチャーを完成させなければならない。それ以降も、思いがけない組み合わせで、様々なものを「動かして」いきたい。新しいジャンルに取り組むのにはリスクもあるし、シンドイことも多い。でも楽しい。こういう機会を与えてくれたMdNの猪俣さんや山口さんには、本当に感謝をしなければ。連作ポスターも、週末あたりから一週間、渋谷や原宿などに張り出される。これ、どうしてもほしいって人がいたらこちらから編集部に掛け合ってみるので、「effects」のチーフデザイナーであるアジールデザイン・大橋に電話を入れて「佐藤がHPでそう言ってたよ」って告げてちょーだい。




1999/07/24

夜中に仕事しながらBuffalo 66のサントラを聴いていたら、キングクリムゾンのMOONCHILDのところで泣きそうになってしまった。なぜそんなもので泣きそうになどなるのか。ワタシは世代でグルになる奴らが大嫌いだし、自分が若かった頃のことを特権化するオヤジなどはワタシの最も忌み嫌う人々でもある。したがって、ワタシの想起する70年代が彼らの回顧などと関係ないことはいうまでもない。なにしろ、高度経済成長期以降に生まれたワタシたちの場合は、生まれた時からすでにジジイ&ババアであることを強いられてきたのであって、若かった頃などもとからないようなものなのである。ワタシ(たち)は60年代に対しても泣くし、50年代に対しても泣くし、40年代に対しても、30年代に対しても、20年代に対しても、10年代に対しても……想像のおよぶすべての過去に対して泣いてしまうような、つまりはたんなる泣き虫なのだ。ジジババが泣き虫であることは昔からの決まり事で、それは何も「ちびまる子ちゃん」の友蔵に始まったことではない。そう言えば、文芸評論家の江藤淳さんが死んじゃったな。ご冥福をお祈りします




1999/07/26

S:こんち。元気?

N:別に元気でもねえよ。

S:そう。なんかね、最近、われわれ、姿眩ましてたでしょ。

N:別に眩ましてねえよ。ずっと仕事してただろ。ちゃんとWORKSのところにも出してるじゃねえか。……そっか、オマエの場合はただしゃべってるだけだから、しゃべってないと「いない」ことになるんだ。穀潰しとはまさにオマエのためにある言葉だな。

S:そうそう、そういうこと。ひひひ。オレさ、最近、本ばっか読んでたんだよ。

N:あっそう。よかったね。

S:でさ、そしたらまた元気出てきたから、しゃべろうと思って。

N:誰もそんなこと望んでないっつーの。だいたいこのシチュエーションさ、わかんないって。半年前にしょっちゅうここにきてた人間じゃないと。

S:いやあ、そんなことはないでしょ。業界関係者とかはさ、WORKSくらいは見るだろうけど、こんなとこまで読んでる奴はすでにわれわれと同じような病気にかかってるってことですよ。

N:どうでもいいけど、その「われわれ」ってのやめろよ。

S:ははは。怒った怒った。まあいいじゃんか、なんのかんの言ってこうしてつきあってんだから。デザイナーがこんなに文字ばっか打ち込んでるところをさ、わざわざ見に来るなんざ立派な病人でしょ。その病んでる人へのお慰みってのも、ネットの可能性のひとつだから。

N:なにが可能性だよ。どんな可能性だ。

S:まあ、ひとつにはね、デザインを破壊する……

N:はあ?

S:だからさ、デザインとかデザイナーとかに対する神話みたいなもんがまだあるでしょ。エラそうに威張ってる奴たくさんいるじゃんか。デザイナーって。くだらないもん腐るほどつくっといて。腐りゃまだいいけど、腐んないからもっとタチが悪いんだ。そういったものをね、こう、ズタズタのケチョンケチョンにさ……壊す!

N:……しかしオマエがバカ晒してもさ、それはオマエがバカなだけなんだから、そんなことじゃ壊れんだろう、デザインの世界は。

S:ダメかね。

N:そりゃダメだろう(笑)。

S:あ、笑ったね。はじめてじゃない? 笑ったの。

N:そんなことないよ。

S:じつはおしゃべり楽しいんでしょ?

N:全然。

S:そんなヒマあったらもっとデザインしたいって思ってるんだ。

N:……。

S:ははは。黙った黙った。デザイン、おもしろい?

N:殴るぞ。

S:ひー、怖いねえ。デザイナー怒った!

N:バカか。何実況解説してんだよ。

S:いやいや(笑)。ワタシの場合、言葉しかないから。ほんじゃ、今日はこの辺にしとこかな。しかし、今日はAさん出てこなかったね。不況だから落ちこんでんだ、きっと。お金、全然入ってこないから。あはははは。愉快愉快。




1999/07/27

(7/26より続く)

A:こら。何が「不況で落ちこんでる」だ。オレは食いぶちを得るために日夜骨身を削って働いておるのではないか。呼ばれたらどこへでも出向いて、頭蓋骨まで割って。まったくオマエらはいいよなあ。プリミティブっちゅうか、単純っちゅうかさ。だいたいオレはね、デザインだけできてりゃ幸せ〜みたいなのとかさ、わけわかんない繰り言ならべてられれば楽しいからそれでオッケーみたいなのとかさ、そういうのイヤなんだよ。経済をなめてんじゃないよ。キミらは食いっぱぐれてでもそういうことやり続けんのかい。え?

S:いやあ、そうありたいねえ、できることならば(笑)。お金のことは大事だと思うけどさ、経済経済って言って経済だけを抽出したロジックって今まで全部破綻してきたわけじゃない。ミクロなマーケティングだって、マクロな経済学だって、全部ダメだったよねえ。予想なんか何にも当たんないし、ズタズタにほころびちゃったもんを後になって取り繕ったりしてるだけだったりするでしょ。経済が好きならそれはそれでいいけど、経済だけで説明できることなんか実はそんなにないんじゃないの?

N:オレはこういう話自体が苦手だな。こんな話してデザインのことわかった気になったとしても意味ないじゃん。景気がよかった時にさ、CIブームとかでデザインの社会的意義なんかを力説してるデザイナーがいたよね。でも、何言ってるのかちっともわかんなかったよ。何億ってお金を裏づけるこれだけの価値がデザインにはあるんだって言われてもさ。わかんないよ、そんなこと。そうなのかもしんないし、そうじゃないのかもしんないし。だって、投資の手段になるならって価値のないものに値をつけちゃう人間がたくさんいるわけだから。そんで、そういう人たちが経済を動かしてたりするわけだから。どっちにしてもさ、そんな理屈はどうでもいいことなんだよ。説明がついたから価値があるってわけでもないじゃん。オレは、デザインを続けていけるだけの金を貰えりゃそれでいいよ。そうとしか言えないな。

A:そりゃそうなんだけどさ、だとしたら問題はその「デザインを続けていけるだけの金」ってところだよ。媒体管理費とかってあるだろ。デザインの不動産業みたいなやつな。そっちのほうが制作費よりずっと高いだろ。おかしいじゃねえか。そういうことをさ、変えたいと思わねえか?

N:別に気にしないな。

A:気にしてほしいんだけどな。いいものつくったね、よし、じゃあこれが木戸銭だって、そんなピュアな等価交換なんかありえないだろ。いろんなものが間に入って、払うほうにも受け取るほうにもその流れが見えなくなってるわけだ。だったら好きなデザインを続けていくための流れを自分たちでつくってかないと。それにはデザインをもっときっちりとしたビジネスとして成立させていくことだと思うけどな。

S:ピュアな等価交換なんかありえなくなってるってのは、それはそうだと思うよ。でも、だからってさ、なんでもかんでもビジネス言語で囲い込んでいったらやっぱダメでしょ。今、世の中に氾濫してるデザインってのは全部その結果うまれたものなんじゃないの。それよかさ、マーケティングとかなんとかの説明とは無縁のところでやっていきたいけどね。だいたいAさんのロジックはわかりやすすぎるんだ。わかりやすいけど、ちっともおもしろくないよ。

A:さあ、それはどうかな。オレは何も、経済ですべての説明がつくなんて言ってない。デザインには説明しようのない暴力性があるよ。それをもっと純化して引き出していくには、等身大の職人芸なんかを超えた、徹底したビジネスの力が必要だと思ってるだけだよ。




1999/07/28

今までは、デザイナーには大きく分けて二つのタイプがあると思ってきた。相手の要求をよく理解したうえで投げる球を考えるコミュニケーション重視タイプと、自分の美意識や価値判断を最上に置く作家タイプ。僕はこの後者の「作家タイプ」を鼻持ちならない人間としてとにかく忌み嫌ってきたから(誤解のないように書き添えておくけれど、ここで書いているのはあくまでデザイナーの態度に関するお話。骨身を削って独立した作品をつくっているホンモノの「作家」に対しては、もちろん敬意を表しています)、自分の場合は明らかに前者なのだろうと考えていた。でも、この二分法自体がどうも怪しい。今まで煮詰まってしまった論議をうち破ってきたものが何だったかと考えると、それは絶対に「健全なコミュニケーション」から出てきたものなどではなかった。では何が状況を打開するのだろうかと考えてみても、よくわからないのだ。TALKINGHEADS/REMAIN IN LIGHTのジャケットデザインは、今まで僕が出会ってきたものの中で最も好きなもののひとつだが、このデザインを生んだのはコミュニケーションでもなければ、ましてや作家性なんてものでもない。じゃあ何なんだろうと考えてみる。……やっぱりわからない。




ARCHIVES