1999/10/04 |
1日にのべ約50人のヒトがこのサイトに寄ってくれている。でも、だいたいの日は、たいした更新もない。「なんだ、また、まんまか」というふうに閉じられる。その繰り返しの数を思う時、ちょっと複雑な気分になる。あと、メールなんかをもらっても、たいがいはそれに応えられない。要はタイミングの問題なんだが、せっかく「エイヤッ」と発信したのに、返事をもらえずにほっぱらかしにされているヒトの気持ちを思うと、やっぱりちょっと複雑。でも、しかたないんですよ。すべてに対応するのは、物理的に不可能なんです。ごめんなさい。 最近、すごーく気にしていることがあって、それは仕事として受けたのに、デザインだけやって、実際の現場に立ち会えないことが増えているってことです。特に、ライブとか演劇とかはナマモノで、場所も時間も限定されているから、行けないことが多い。でも、デザインをやっているってことは、つまるところ、それを応援しているわけだから、まずはそれを自分で味わってみることが何よりも重要。それをしないで、デザインだけやってるのって、なんか「片手落ち」なカンジが拭えない。 デザインを始めた頃、とっても疑問に思っていたのは、広告のデザイナーとか、CIのデザイナーとか、エディトリアルのデザイナーとか、音楽関係のデザイナーとかいう区切りが当たり前になっていて、それぞれの分野で優秀なヒトはいても、「全部デザインじゃん」っていうふうに、何でもやってるヒトがあんまり見あたらないことだった。そういうことをあちこちで言ってるうちに、ボク自身はいろんなジャンルのヒトから声をかけてもらえるようになってきたけれど、実際にやってみると、カラダはひとつなわけで「こりゃ大変だわ。誰もこんなやり方したがらないわけだわ」ってこともよーくわかってきた。 でも、今さら後には引けないし、徹夜を重ねてなんとかやっているわけだけれど、「ジャンルで区切るのって変だ」って思い続けた結果として今があるのだとしたら、「面倒でもこのやり方を通すしかないじゃん」って思い続けさえすれば、きっとそれを可能にする方法やら条件やらもこれからついてくるはず。ボクは楽観主義者なので、そのように考えるわけです。カラダがひとつじゃなくなるとか。眠らないでも生きていけるようになるとか。道はいろいろあるでしょう、きっと。 |
1999/10/07 |
「きいちのぬりえ」の作者、蔦谷喜一さんのところに行って来た。85歳の現役である。一世を風靡した人物でありながら、ちっとも偉ぶったところがない。好奇心旺盛で、こちらの話も目をきらきらさせて聞いてくれる。おしゃれを怠ることがなく、身体に合わない服は自分で直して着ているそうだ。大正モボの気骨を感じる。京都書院から発行されている「きいちのぬりえときせかえ」には著者としてその名が明記されているが、できあがった本が送られてきただけで、印税どころか作品を使用するにあたってのあいさつもなかったという。保存していたコレクションも、展覧会だのなんだので持ち出されるたびに減っていって、手元にはもうほとんど残っていないそうだ。かといって、そうした人間と争うこともなく、これから描く絵のことを考えている。「そんなことでボクが争わなくたって、神様が罰してくれるんです。京都書院もつぶれたでしょう」と言って笑っていた。カッコイイなあ。 |
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